ぼんやり暮れていくだろう空を見上げた。
陸橋を走り抜けていく列車が、がらんどうな今に唸りをあげそうだ、女は一つ溜息をついた、空白に染まったカレンダー。
一番ちゃほやされたのが入社した頃だろうか、どこか虚しさを感じる、
年齢ではない、なにか――
ただの羅列にしか見えない電話番号、まるで悠々とした態度が鼻に突いた。
酔いが冷めた頃、改めて握り締めたマッチ箱を見つめた、幾ら検索しても出てこない名前、きな臭いほどの火薬の匂い、硝煙のような独自の芳香が男の印象となって女の脳裏に熱く焼きついている。
「ここではないどこかへ――」
週末のドライブ、どこに行こうにも足取りは重いだけだ。
男は知っている、再び女が、ここを訪れることを、待ち上手だと思った、余すところなく与えられた賛美は聞こえない。
ただ逢うべきしてあった、必然は一つの偶然にしか過ぎない。
女は笑った、ルームミラーに映すなり手早く化粧を直した自分に。
握るハンドルが嫌に軽い、踏み込むことさえ忘れたアクセルを力一杯踏み込んだ。
目前の信号機が赤に変わるなり、女はさらにとアクセルを踏み込む。
飛び込むようにして右折しようとするコンテナ車が見えた、構わない、激しいほどの轟音、クラクションを全身に浴びてもなお、女は生きている。
傷一つ着いていない車体、人間は簡単に死んでしまうようで強い。
そうかと思えば死んでしまう、不思議な生き物だ。
浴びるようなスリル、躍動するように鼓動が高鳴っては性的欲求を強く感じる。
両手を伸ばすほどに広く、爪先を立てて覗き込む様相、
いるようでいない、ふらりとすれ違うほどに男はいるのに、頭デッカチな男はなぜ、あれほどにチンケにこじんまりとしているのだろうか。
すらりと伸びた足を強調するかのように踵の高い靴が好きだ、軽々と飛び越えてしまう社内の男たちの頭を見下ろすように見る毎日。
簡単そうで難しい、身長を取れば、ただのガサツな男だった時がある。
顔をとれば、一つ頭が出てしまう長身、あの男と歩いたのなら、きっと腕を組んで歩いていける、引けをとらない知的さ。
一度でいいから振り向くような男と歩いてみたかった。
からくりを見つけるようにマッチを捨てた、その裏側に書かれた名前を見る、その下に書かれた携帯番号を迷いなく打ち込んだ。
声が裏返るように震えた。
「お久しぶりね」
さも親しげに話しだす自分に驚くばかりだ、ここで浅はかな男なら、さも知った口を利くだろうか、それとも声色に似た名前をいくつか探りだそうとするのだろうか。
男は小さく「ふーん」と言った気がした、態々マッチ箱を探るような女など数知れている。
「なにが知りたい?」
この前と同じ声色、澄ましたような無表情な声が背筋を寒くする。
「飽き飽きすること」
男はまた小さく「ふーん」と言った気がした、こちらの動向を探るよな間合いが斬新なほどに面白い。
「今どこ?」
まるで我が物顔で言った、まじないをするかのような運試しは終わった。
頬杖をつくほど退屈ではなかった。
今度は女が頷く番だ。
怪しい点滅が嫌に目に飛び込んできた。
見えない一枚のガラス窓、まさに目前に飛び込んできたのはガラスペンと言うほどに幻想的な一角だった。
相槌を打つのも忘れてしまうほどだ。
女はビー玉を転がすようにガラスペンを揺らした。
快楽と官能、拒みと欲情。
すべてがシーソゲームに思えた。
セックスとマスターベーション。
どちらが気持ちいいのかと聞かれたのなら、女は迷わずマスターベーションを選ぶ。
空想と現実、
若いころはなんとなくの空想に耽ることもできた、だが、今はできない。
「退屈――」
ありったけの想像は知らないからできることだと女が気づいたのはいつの頃だっただろうか。
プラトニックが一番にエロスティックだ。
「まるで子供だな」
渡し忘れたままのガラスペン、すべてを置き去りにしたままの月日だけがある。
思いのほか男は優しげだ。
捨てることも見つめることさえできなかった。
「あげる」
「尽きないな」
大きくソファーに凭れた男は無造作に手渡されたガラスペンを受け取った。
代わりにと置かれたペリオを女はゆっくりと飲み干していく。
会話だけを聞けば他愛無い出来事に思えた。
「どこまで頑張る気かしらね」
振りだけの抵抗は捨てられる、男が欲しいのは本当の拒みだ。
一人、二人、三人――
人間なんて二種類しかいない、どちらでもないのがいたなら、それはそれでいい。
中途半端で終わってしまうことが自然なのだから。
押し出されるように言葉が次から次へと出てくる、ずっと胸の奥、しまい切れないほどに溜め込んだ言葉が胸のさらにと奥から吐き出されていくようだ。
「もっと早く出会えてたのなら」
つっかえたように吐き出そうとする言葉を女は強く飲み込んだ。
それだけを飲み込んでいればいい。
音もなく頬を打たれる痛さを女は知っている、拳で殴られるよりもずっと奥に疼痛していくように、じわじわと襲ってくるのだ。
男がようやく立ち上がった、不意に、はらりと落ちたガラスペンの破片がもう一人の私だ。
過ぎた痛みは、いつしか自分自身を臆病者へと落としいれていくものだ。