学生の時、アパートの隣に住んでたのが、
八畳一間に病気で寝たきりに近いお母さんと高齢のお婆さんと、中学生の娘さんという一家。
とにかくちっちゃくて痩せてて、ちゃんと食べてるのかなって感じの女の子。
けど明るくて、元気に挨拶とかしてくれて。なんとなく仲良くなった。
学校終わったら真っ直ぐ帰ってきて、お母さんお婆さんの身の回りのことやってた。
収入が生活保護しかない状態で、生活はかなり切りつめてる感じだった。
彼女の家、テレビはあったけど冷暖房の家電は無いし、電話も無かった。
制服以外の服二着しか持ってなかったし、いつも制服のスカートだった。
髪もシャンプー使わず石鹸だったみたいだし、自分で切ってた。
彼女の家の事知ると同情みたいな感情わいてきたけど、なるべく普通に接した。
だんだん親しくなると土日の休みとか俺の部屋に遊びに来るようになって、
宿題見たげたり一緒にゲームしたり、そんな時は笑ったりちょっと怒ったり、ホントにフツーの女の子だった。
けど、ある日バイトから帰ってみるとドアの前で待ってて「○日に絶対返すから千円かしてください」って。
何か様子が変だったから「どうしたの?」って聞いたら顔真っ赤にして、
「…生理始まっちゃったけど、ナプキン無くなっちゃったから…あは。」
聞いたこと物凄い後悔したし自分責めたよ…。
少しだけ続き書かせて貰います。
千円と言われたけど千円札が無いと言い張って五千円札押しつけた。
夜の八時くらいだったけど、多分コンビニ行ってすぐ戻ってきて、
「残りは○日まで待ってください」って、四千円返しに来た。
返さなくていいよ、なんて言える感じでもなくて。黙って頷いた。
お母さん達には内緒にって言われはしたけど、お母さんはやっぱり気がついてたみたいで。
次の日、体調よかったのか朝ゴミ出ししてるお母さん会った。
「…お世話になってしまって。」って、何度も何度も頭下げて。十八のガキだった俺に。
「俺も色々教えて持ってますから。お互い様ですよ。」
実際ゴミ出しとか分別とかやった事無くて、適当詰め込んで出してたら駄目出しされたりした。
全く知らない街なので銀行やらスーパーやらの場所も一通り教えて貰った。
友人知人の全くいない街だったので、彼女に教えて貰って凄く助かった。そんな事を話したと思う。
お母さんはやっと少し微笑んでくれて「また遊んでやって下さい」ってまた頭下げて。
立ち話してると、制服姿の彼女が鞄持って降りてきた。
「おはようございます!」って元気な挨拶してくれた。いつもの彼女だった。
「あれ、まだ早くない?」「今日、日直なんです。」短い会話かわして、送り出した。
「…よく笑うようになってくれたんですよ。」
お母さんが、嬉しそうに言って、また頭下げた。
貸した千円は、ちゃんと言った日に返ってきた。
「あは。ホント助かりました。」恥ずかしそうにそう言って、笑った。
あの一件以来は結構自分達の事もお互い話すようになって。
「学校慣れた?」と言う俺の問いかけに答えて「あんまり居場所無いです。」
不用意に聞いた俺に普通の口調で言った時は、またやっちゃったかと。結構へこんだ。
彼女がアパートに越してきたのは小六の夏頃で、慣れる前に中学上がってまたクラス替わって。
四月に中学行き始めてもお母さん体調悪い時期で、学校休んだり途中で帰ったりで。
周囲と打ち解けるタイミングを完全に逸して、浮いてる。それ聞いてまた、へこんで。
友達とか知り合いがいなくて、寂しくて俺と接するようになったんだろうと思った。
授業すんだら真っ直ぐ家帰ってきて、洗濯とか炊事とかこなして、暇出来たらドア叩いて。
頭悪いなりに勉強しようとして手当たり次第に乱読してたから文庫本がたくさんあった。
「続き読んでもいいですか?」って、静かに小説読んでる事が多くて。
持って帰っていいよと言っても、汚したら大変だしとか言って必ず俺の部屋で読む。
飲む物とかお菓子進めても、缶一本とか一袋とかじゃ遠慮して受け取らなくて、
ボトルあけたやつ分けるとか、封切ったやつ分けるとかしてやっと食べてくれて。
それきちんとお母さんお婆さんに報告するもんだから会うたびにお礼言われて、困った。
お返しにとお母さんに色々ご馳走になった。
タイ米のチャーハンってこんなに美味い物かと驚いて、レシピ聞いたけど普通の物で。
タイ米買ってきて暫くそればっかり作って食べてたけどどうしても近づけなくて、
彼女に聞いたら「私同じに作れないから、また食べに来てください。」って返事で。
いいのかな、って思いながらも何度も食べさせて貰った。
お礼言っても「娘がお世話になってますから。」いつもそう言ってくれて。
色々気にかけてくれてて。彼女通じて何やかやと教わることも多くて。
世話になりっぱなしの状態だった。
そのお母さんが最近ちょっと元気ないな、とか思っていた矢先の事。
俺と彼女が学校に行ってるとき、お母さんは動けなくなった。
学校の名前を覚えていたお婆さんが、俺にも電話してくれて。病院駆けつけて。
お婆さんは救急車を呼んだが、呼ぶかどうか迷って時間がたってしまったと、謝っていた。
多臓器不全。変化に気がつかない訳がない。何で放置したのか。
医者が、叫ぶように言った言葉。おもわず怒鳴りつけそうになった。
すいませんでした。」静かにそう言った彼女の方が、俺より大人だった。
即入院。集中治療。身内を呼んでおくように。医者はそう言っただけ。
完全に思考停止して。とにかく俺の手におえる事態じゃなくなって。
困り果てて、親父に電話をした。返事は「今から行く。」それだけ。
平日の昼に仕事抜けて、一時間ちょっと高速飛ばしてきてくれた親父。
お母さんとは、俺が入居したときの挨拶で会っただけの間柄。
「お世話になったんだろ。俺がお世話になったのと同じだ。」理由はそれだけ。
親父はまだ話が出来たお母さんと、二人で少し話して。硬い顔して出てきた。
お婆さんが限界っぽかったので、親父が送っていくことになった。
彼女は残ると言ったので、俺も残る事にした。
出来る事はないけど、彼女を一人には出来ないと、俺なりに思った。
薬とか点滴とかの影響で眠ってるお母さんのベット脇にあったイスに二人で座って。
じっとお母さんの顔見てる彼女の横で、俺が泣きそうで。必死で我慢した。
彼女が泣いてないのに泣くわけにはいかなかったから、なんとか我慢できた。
お母さんは、入院して三日目に亡くなった。あっけなかった。
享年三十四歳で。そんなに若かったのかと思うと、全然納得がいかなかった。
葬式の手配とか役所でやる手続きとか、そんな物もやらなくちゃならないけど、
お婆さんも混乱してて、俺も彼女も、やった事もなくて戸惑って。
また親父に電話をした。「そうか。」それだけ言って、また来てくれて。
半泣きで礼を言ったらビンタが飛んできた。「あの子の前でその面するなよ」と。
親父は、色々な事を一つ一つ処理していってくれた。頼もしかった。
葬式、火葬。現実味が無いまま淡々と進んでいって。
お骨になったお母さん見ても、まだ全然、これ何かの間違いだろって感じで。
お婆さんは、赤い目して口引き結んで。それでもしっかり背筋伸ばしてて。
彼女は涙をみせなかったけど、表情無くしてて。ずっと俺の手、痛いくらい握ってて。
時々、彼女に視線落とした俺と目があって。小さく頷いて。
全部の事が済むと、親父は俺達アパートに送って、仕事の為にすぐ帰って。
俺は一人、自分の部屋でただ座ってた。呆然と。頭が全然、動かなかった。
夜中になって、彼女がドア叩いた。Tシャツ、ジャージ姿。すぐ部屋に入れた。
彼女は着たままだった俺の喪服掴んで。それでもまだ笑顔作ってて。
「あは。やっぱ、おばーちゃんの前じゃ、泣いちゃ駄目かなって。」
ぼろぼろ、涙こぼして。顔、胸にくっつけて。
「お、お、おにーちゃんなら、ちょっとなら、許して、くれる、かな、って。」
やっと、声あげて泣いた。泣いてくれた。これで俺も泣いていいと思った。
結局俺のした事は、一緒に泣いた事。それだけ。情けなかった。
あの時以来、「お兄ちゃん」と呼ばれるようになった。
それまでは名字にさん付け。それがいきなり。
兄弟いないから呼ばれたこと無いし、相手は女の子だしで、気恥ずかしくて。
やめてと言った事もあったけど「ダメですか?」と言われると、ダメとは言えなくて。
お婆さんに言わせると「甘えたかろうから」と、そう言う事らしかった。
お婆さんは葬式以来、俺らに全く弱み見せなくてなって。何か気が張った感じで。
家の事を彼女にさせずに、全部自分がやるようになって、手伝おうとすると、追い払う。
内職まで始めて。組み立てとか、細かな手仕事。俺や彼女が手を出すと、怒る。
今思えば、一日中動いてる事で、あれこれ考える時間を減らしてたんだと思う。
平日は学校のあと、土日はバイトから帰って一息した頃に、必ず彼女がドア叩く。
話してたり、本読んでたり、たまにゲームしたり、やってる事は同じ。
ただ、時々ちょっと沈んだ感じで。言葉少なくなって。妙に距離が近くて。
やたらくっついてきたり、服とか腕とか持ったり掴まって離れなくなったり。
目が潤み始めたりすると、俺までそうなって。二人で我慢したり。しきれなかったり。
単に甘えてるだけって時もあって、くっついたり触れたりで俺の反応見てる感じで。
まぁいいかと言う感じで許してたら突然、膝に乗っかられた。かなり慌てた。
「こら。」「ちょっとだけ。」ちっちゃくて肉の薄い彼女。軽さに驚いた。
俺の胸に背中くっつけて。身体預けて。ぽつりと言った。
「…お父さんみたい。」「どういう意味?」つい、聞いた。
間を置いて「こんな感じだったのかなって思うんです。」そう答えて、微笑んで。
彼女にはお父さんの記憶が無い。言葉に詰まって。頭撫でて、ごまかした。
「あは。多分、こんな感じです。」くすぐったそうにしながらそう言った。
彼女はこの事もお婆さんに話していた。からかわれて、ちょっと困った。
夏休みに入ってからは俺はバイト。彼女はお婆さんの許しを得て内職の手伝い。
友達とかおかんとか、地元帰って来いと言う誘いもあったけど、帰らなかった。
彼女とお婆さんと、気になってしょうがなくて。
暑い盛りに、お母さんの四十九日。納骨に行く事になった。アパートから車で一時間半くらい。
親父の車に俺と親父と彼女とお婆さんとで、車酔いする彼女を気遣いながらゆっくり、
休み休みで無事にお寺ついて。納骨と供養。お母さんを、彼女のお父さんの隣に葬って。
「寂しくないですよね。お母さん。」そう聞いた彼女に、頷くしかできなかった。
お経の最中、彼女は俺の手握ってたけど、そんな強い力じゃなかった。
俺は俺で、お墓見るとやっと少し現実味を感じて、もう納得しなきゃいけないなと。
一段落と言うか区切り。気持ちの整理みたいな物をきちんとしないといけない。そう思った。
家帰ると、彼女は用事済むといつもさっさと帰ってしまう親父見送って、すぐ部屋来て。
俺のすぐ前で正座して。何かちょっとかしこまって。ぺこっと頭下げて。
「色々ありがとうございました。」「…色々は、親父の方。」
つい口に出た。彼女がちょっと困った顔になって、しまったと思った。
「えっと。じゃあ、一緒にいてくれて、ありがとうございました。」
ちょっと考えて言葉選んで言ってから、続けた。
「おばーちゃんの前じゃ、強がっちゃうから、思いっきりとか泣けなかったと思うし、
お兄ちゃんいてくれたから、頑張れたし。あは。いっぱい、甘えちゃったけど。」
彼女は照れくさそうにしながら、ちょっと小さな声で言った。
「また、甘えていいですか?」「うん。」「いっぱい?」
頷いたら「お願いします。」と言って、久しぶりに思いっきりの笑顔見せてくれて。
この子が笑ってくれるんならそれでいいや。そう思う事にした。
お母さんがいない生活にだんだん慣れて。慣れるしかなくて。
彼女とお婆さんも、少なくとも表面上はそう見えて。彼女も沈む事が少なくなっていって。
寒くなってくる頃にやっと、それなりの平穏と言うか普通の日々を取り戻しかけてたと思う。
お婆さんの内職は保護を受けてると働いた分全額は貰えなくて、そんなに収入は増えなくて。
けど彼女とお婆さんにとっては大きな額で、食費でギリギリな生活は脱してた感じ。
でもその年初めて息が白くなった日でも暖房とか使って無くて。と言うか、無くて。
学校帰ってきて内職中のお婆さんとこ顔出したら何か薄物を重ね着してて、寒そうで。
慣れてるとか言われても心配で、使ってなかった綿入りの半纏持っていった。
あげると言うと絶対に断るだろうから貸すと言って押しつけたら、喜んでくれて。
でも「あの子、やきもちやかないかね。」とか心配してて、実際そうなったみたいで。
帰ってきた彼女はいつも通りにドア叩いて、開いてるって言ったら黙って入ってきて。
すぐ俺の横来て、座ったと思ったら黙ってじーっ…とこっち見つめてて。
その目で暫く固まってたら、わしっ、と腕掴んで。ちょっと揺さぶられて。
「おばーちゃんにだけですか?」って口尖らせて。その表情がやたら子供っぽくて。
それまで年や背格好の割にはしっかりしてて大人びた印象だったから、ちょっと意外で。
「何か貸そうか?」って言ったら「これ。」って着てたパーカー引っ張られて。
「これ?」「うん。」「これでいいの?」「オレンジだもん。」物言いまで子供っぽくて。
「洗って貸すよ。」「今。すぐ。」せがまれて、その場で脱いで。すぐ着られて。
ガタイはそこそこある俺にも大きめのパーカー、よく着てた部屋着で、くたびれてたやつ。
彼女にはかなり大きくて、丈も長くてブカブカで。立つと膝くらいまで届いて。
袖に手入れたまま握って。体操座りで足すっぽり入れて。こっち見上げて。
「あは。やっぱり。」もたれかかってきて。「ん?」「あったかいです。」満足そうに笑って。
とにかく可愛くて。彼女が笑ってると安心してしまう自分に気付いた。
十二月に入ってすぐ。「冬休み、どうするんですか?」彼女におずおずと聞かれて。
反射的に「忙しいから帰らない。」とか適当言って、年末年始も家に帰らない事に決めた。
結局バイト三昧。おかんも婆ちゃんも、親父に聞いて事情を知ってたので、
帰らないと伝えても特にコメントは無く。何か送っとくから、と言うだけだった。
餅とか種々の食材とか実家では冬一番の御馳走な鴨とか、多量に送られてきて。
お裾分けしろと言う事だろうなと理解して、彼女に「鍋やろ」って言って。
二人で土鍋とコンロ買いに行ったホームセンターで、クラスの女の子と出くわして。
「あー、いらっしゃいませ。」「バイト?」「うん。詳しい事は明日聞くから。」
非常に面倒な事になったと思いながら、買い物済ませて帰って。彼女とお婆さんと鍋やって。
暑いくらいに体の温まる鴨、彼女もお婆さんも驚いたみたいで、喜んでくれて。嬉しくて。
残った汁保存する為にさましてたら、パーカー着た彼女が横に来て、足入れて座って。
何か妙に近くて。彼女の髪の匂いで鼻くすぐられるのを、その時初めて意識したと思う。
「あのー。今日会った人って。」「学校の友達。」「ただの友達?」「ただの友達。」
「じゃ、詳しい事ってなんですか?」「俺との関係みたいな事じゃないの。」
「あ。私ですか?」「説明、しにくいな。」「ですよね。」「何て言っとこう。」
「あは。カノジョじゃダメですか?」視線向けると、ほてった顔して笑う彼女がいて。
「で、いいの?」冷静装って聞いたら「え、いいんですか?」って、ちょっと驚いてて。
「いいよ。」「お、お願いします。」そんな事になってしまって。かなり、うろたえた。
彼女はかなり昂揚した感じで。それ抑えたつもりか、囁くような声で、妙な事言いだして。
「あ、えっ、でも、カノジョっぽい事とか、ゼンゼンわかんないんですけど、いいですか?」
「カノジョっぽい事って?」意味合いが微妙そうで聞いたら、かぁっと耳まで真っ赤になって。
ぺしぺし肩叩かれて。フードかぶって。膝抱いた腕におでこくっつけてその顔隠して。
「おばーちゃんにはナイショですよ。」「内緒なんだ。」「絶っ…対ですよ。」「うん。」
時々顔あげて「赤いですか?」って聞いて。なかなか冷めなくて。ちょっと帰りが遅くなった。
次の日登校してみたらクラスの三割くらいが尋問態勢だった。普通にカノジョだと答えた。
「えー、潔すぎてつまんない。」「否定しねぇといじれねぇじゃん。」勝手な連中だと思った。
『カノジョ』と言う事になったとは言え、俺と彼女に急な変化がある訳ではなくて。
とりあえず一緒にいて、同じ時間過ごしてた感じ。それまでと何ら変わらなくて。
彼女が宿題持ってきて、一緒にやってたりで。一人っ子だからそんな経験無くて、新鮮で。
俺は十二月半ばに冬休み入って、彼女はクリスマス直前から冬休みに入る。
夏に彼女が誕生日迎えた時はそれどころでは無くて、今回は何かプレゼントでもと考えて。
「欲しがってる物とかありますか?」ってお婆さんに聞いたら「着る物かねぇ。」って答えで。
じゃあそれで、みたいな事言ったら「そんな世話になっていいのかねぇ。」って心配されて。
「いいんじゃないっすか、クリスマスなんだし。」とか訳の分からない事、言った気がする。
でもいざ買うとなると俺一人で買いには行けなくて。クラスの女の子達に助け求めて。
「一緒に買いに行かないの?」「それだと多分、遠慮するから。」泣き入れて。頭下げて。
昼おごらされて。彼女の事聞かれて。動揺しまくって。からかわれて。反論して墓穴掘って。
いかついとか怖そうとか、そう思われてたらしい俺のキャラは、その時完全に壊れた。
結局、普通に着られる感じの物って事でいくつか選んで貰って、俺が最終的に決めて。
ハーフコートとフリースとジーンズとで、たしか四万くらい。安い方、だったらしい。
買って帰って。押入に隠して。彼女が押入開けたりする事は無いんだけど、近づくと警戒したりで。
クリスマスイブにはお婆さんがケーキ買ってくれてて、三人して食べて。
タイミングとか考えるのも面倒だったんで、その時彼女に普通に「これ。」って渡した。
「いいんですか?」「うん。」「ありがとうございます。」そんなあっさりした反応で。
部屋帰って少し時間があって。外したっぽい。そんな風に考え出した頃にドア叩いて。
ドア開けたら、雪舞ってる中に上気した顔の彼女がいて。全部、着てくれてて。
身長大体このくらい、で決めたサイズ、ちょっと大きめで。それが可愛くて。顔緩んだ。
彼女の髪に乗った雪払って。「気に入った?」聞いたら何度も頷いてくれて。やっと安心して。
部屋でコート脱いで、オレンジのフリースとジーンズ姿になった彼女。微妙に照れてて。
「どしたの?」「こういうの、初めてだから。何か。」はにかんで、視線落として。
「クリスマスとかも、久しぶりだから。」ちょっと湿った声になって、慌てた。
頭に手乗っけて。「泣くなー。」先に言って。でもちょっと涙流れた頬、親指で払って。
「泣くの禁止。」「嬉しいからだもん。」「それでも禁止。」「…はい。」無理矢理言わせて。
よし。とばかりに髪撫でてたら、飛びつかれて。不意突かれて、受け止めたけど、よろけて。
抱き締められて。「あは。もう少し。」が何度もあって。なかなか離れてくれなくて、困った。
お婆さんにも、一日遅れですいませんと言って、フリースと膝掛けを渡した。
「私にまでかい?」「クリスマスですから。」笑って受け取ってくれて。喜んでくれた。
お互い名前で呼んだ事が殆ど無いので、文章にすると何度も名前書かなきゃで、
違和感があるというか、何か恥ずかしいというか。とりあえずこのままで。
平成十一年です。七年前ですね。
年明けからの俺は、毎日必死だった。施設実習が始まったから。
医療系専門学校の介護福祉科。ボランティアでの単位取得と実習の連続で。
一月中頃から二週間のボランティア。そしてその直後、二月の初旬に後期の定期試験。
解らない事だらけの現場。頭に入らない試験勉強。かなりきつい状態で。
受け入れ先は精神科の専門病院で。隔離棟入ると、身の危険感じるような状況もあって。
人間相手の事だから、腹立ったり、いらつく事もあって。切れかかったりって事もあって。
でも彼女の前で辛さや怒りを見せる訳にはいかなくて。家帰るまでに、何とか顔を元に戻して。
家帰って彼女が来てくれて。「お帰りなさい。」その一言でやっと、和んで。緩んで。
実習記録の整理してると、少し距離おいて、お互いの視界に入る所に座ってて。
壁もたれて、小説とか読んでて。ふと顔上げると、目があったりで。多分、様子伺ってて。
記録の整理して。試験勉強して。一段落。ノート閉じたら、近寄ってきて。横座って。
話したり。話さなかったり。ぼー…っとテレビ見てたり。特に何するでなく時間が過ぎて。
そんな何でもない時間が俺には大事な時間で。その時間を彼女が作ってくれてて。
おかげで実習何とか乗り切って、試験の結果も出て。何とか踏みとどまる。そんな感じで。
進級が確定した時は、虚脱して。「大丈夫ですか?」「大丈夫ですよね?」何度も聞かれて。
「大丈夫。」何度も答えて。結局心配掛けてるなと、微妙にへこんだ。
けどとりあえずの不安が去って、補修も無いし出席も足りてるしで気楽に学校も行けて。
ちょっと抜けた感じの生活。俺は朝一の講義を取る必要が無くて、夜更かししてた。
いつもは十時くらいには帰る彼女が、その日は帰らなくて。横で静かに本読み続けてて。
ちょっと眠そうにしながら、時々、時計気にして。十二時回ったところで、立った。
「あ、帰る?」「まだ。」壁に掛けてあったコートから何か、引っ張り出して。横、来て。
「はい。」「何?」「チョコ。」「え?」「十四日になったから。」「え?」
青い包装紙の箱受け取ってもまだ、合点がいかなくて。時計指さされて。確認して。
「二月十四日。」「あ。」やっと理解して。ちょっと何か、固まって。
「カノジョですから。」貰っていいの、とか聞く前に自分で言って。笑って。
「これで私が一番、先。」「一番?」「お兄ちゃんが誰かに貰うかも知れないから。」
「これ、後先って関係ある?」「あは。なんかやだから。」また、笑って。
彼女がそう思うならそうなのかなと思って。「ありがと。」どうにかお礼言って。
「ちゃんとお返しするから。」そう言ったけどちょっと首振って。
「聞いてもいいですか?」「何?」「答えてくれますか?」「だから、何?」
「答えてくれるんなら、聞きます。」「答える。」「じゃ、聞きます。」
ちょっと間置いて。「私の事、好きですか?」探るように、聞かれて。
「…うん、好き、だし、大切。」急激に乾いた喉からやっと声絞り出して。大きく息吐いて。
何も言わずに、肩に頭、乗っけてきて。手、探られて。握って。汗ばんだ手が凄く暖かで。
お互い言葉出なくて。何時だったか忘れたけど彼女の「あ。寝なきゃ。」って声に頷いて。
彼女が部屋の中入るまで見送って。部屋で一人、チョコの箱見てて。開けられなくて。
冷蔵庫にしまい込んで。色々考え初めて。頭グツグツ煮えて。殆ど寝られず学校行って。
学校の女の子は俺にはカノジョがいると知ってたので、彼女が心配したような事は無かった。
その時貰ったチョコは何か勿体なくて、食べられなくて。封も切れなくて。
何日か冷蔵庫でご本尊のような扱いを受けていたのを学校から帰った彼女に発見されて。
怒って珍しく大声で「何で!!」そう言ったきり部屋の隅座って、涙目になって。
慌てて謝りながら彼女の目の前で食べて。その後も無視られながらの弁解に必死で。
視線くれるのにもかなり時間かかって。口開いてくれたのは十時回った頃で。
「マジ何でもするから、許して。」「…何でも?」「出来る事なら。」「本当にですか?」
「する。するから。」「じゃ、もう一回聞きますから答えてください。」「え?」
「私の事、好きですか?」まだ責めるような目で。一瞬躊躇したけど同じに答えて。
「…好き。だし、大切。」その一言で彼女は頷いて、やっと顔緩めてくれて。
「あは。安心しました。」その笑顔でまた、とんでもなく悪い事をしたような気分になって。
思わず謝ったら「もう許してます。」そう言って、立って横来て。腕持って。
「また今度聞きます。」「え?」「言って貰ったら嬉しいから。」ちょっと顔ほてらせて。
頷いたら、やたら嬉しそうに笑って。またその顔で自分が悪い事した気分になった。
いらないとは言われたけど、ホワイトデーには一応、クッキーを渡した。
彼女は「食べなかったら怒りますよね?」そんな事言って。悪戯っぽく笑って。
「何でもするって言うまで許さない。」そう答えたら「あは。ちょっと怖い。」
何が怖いのか聞こうかと思ったけど、既にちょっと赤かったから、やめた。
進級して二年生になった彼女は、お婆さんと毎日のように進路の事話していて。
お婆さんは、高校くらいは出ていないと仕事探しにも苦労するのではと心配していて。
彼女が小学生の頃から中学出たら働くと言っているのを、なんとか説得してと頼まれて。
俺の言う事なら聞くかもしれないと言われて、その気になって。軽く引き受けた。
それとなく色々話振ったけど、頑固で。とにかく早く中学出て働きたいとしか言わなくて。
高校は出るのが普通。俺はそう思い込んでいて。口にはしないけど、変だとまで思ってて。
焦る事無いとか、しっかり考えてからとか、解ったような事言い過ぎたかもしれないし、
他にも何か気に障る事があったのかもしれない。けど直接の引き金は、俺の無神経な一言で。
「早く働きたい理由って何?」それで、彼女の顔からすっと表情消えて。
「…おかね、ないからですけど。」抑揚の無い声で。冷たくて。細い針のような言葉で。
真っ直ぐ見据えられて。返す言葉が無くて。思わず目をそらしたら、彼女も視線落として。
お互いそのまま、動けなくて。彼女が黙って帰ろうとしても、言葉をかけられなくて。
それ以来、進学とか就職の話は、俺には出来なくなって。お婆さんには謝って。
お婆さんも、彼女が言った言葉を聞くと、辛そうで。言葉無くしてて。謝られて。
まだ気変りがあるかもしれないから、とりあえず触れない。そんな感じで、先送りになって。
俺が手を出せる事じゃなくて。その力も無くて。情けなくて。浮ついていた気持ちも吹き飛んで。
彼女が毎日、俺の部屋に来るのは変わらなかったけど、一緒にいても空気重くて。
会話しててもぎこちなくて。謝っていいのか、それも解らなくて。部屋に居づらくて。
なのに家帰った時、彼女が来てくれると安心して。そんな日が続いて。
でも帰った時、通路にいた彼女が普通に「お帰りなさい。」そう言ってくれて。
何日かぶりの事で。俺もなんとか「ただいま。」言えて。笑ってくれて。
一緒に部屋入って。定位置にいつも通り座って。それでやっと、重さが少し散った気がした。
家の事は彼女が置かれている現実で。多分、色々と考える事が多い時期で。
あの時はまだ、俺みたいな他人に踏み込まれるのは嫌だったんだと思う。
明確に一線を引かれて。その事に関してはそれ以上、知る事も拒否された感じで。
どうにかしたくても、仕送りとバイトで生活させて貰ってた身ではどうにも出来なくて。
まずちゃんと資格取って卒業して就職しよう。殆ど考えもしないで、そう結論出して。
職に就いたからと言って、何か出来る事があるのかどうかは解らなかったけど、
とりあえずそれに集中しようと言う、ほとんど逃避のような状態で、そう決めた。
半月くらいすると、彼女とは元通りというかそれまで通り。表面的にはそう戻ることが出来て。
俺がのんびりしてる時は必ず横にいて。色々話して。よく笑って。時々甘えて。
たまに怒って、拗ねて。許して貰うのに時間かかって。でもそれも、甘えてるのと一緒で。
結局は、ちょっとじゃれついてきたり、長居する口実。それはそれで、可愛くて。
学校か実習行ってバイトして帰って、彼女がいて。その繰り返しの毎日はとにかく早く過ぎて。
春先からもう就職活動の準備初めて、色々やってるうちに彼女の誕生日が近づいて。
また何か、とは思ったけど今の状況ではどうなんだろうとそんな事考えてる時。
不意に「お願いしていいですか。」なんて言いだして。それまでには無くて。ちょっと意外で。
「何?」「行きたい所があります。」「どこ?」聞くと、お母さんのお墓で。
命日には行きたい。けどお婆さんは「何度も泣きたくない。」と渋ってて。
電車賃は貰ったけど一人で行くのは初めてだから不安で。いつ言おうか迷ってた。
そんな事言われて。「行こ。」それだけ言うと、「よかった。」って、笑ってくれて。
バイトの出勤表二人で見て、行く日はすぐに決まった。六月中旬の土曜。何日か前倒しだった。
朝少し早起きして。顔剃って、風呂入って。
何となく、儀式の前のような、そんな気がして。普通の格好だけど身綺麗にはした。
約束の時間にドア叩いた彼女は、無地のTシャツにジーンズ姿で。どちらも少し、緩めで。
そのせいか、いつもより少し小さく見えて。髪も、その日は結んでなくて。
肩口までの髪、サラサラ遊ばせてて。そのせいもあってか、少し幼く見えた。
「おはよ。」「おはようございます。」そう言っただけで、すぐ出発して。
駅まで歩いて、朝八時四十何分だったかの電車に乗って、席取れて。
電車の中では、彼女は酔うのを怖がって、殆ど目閉じて、眠ってしまおうとしてて。
邪魔しない方がいいんだろうなと思って、話しかけるのはやめておいた。
特急乗って一時間半くらい。少し待って乗り換えて、汽車で四十五分くらい。
窓の外の景色がだんだん山奥になっていって。山と川と崖ばかりの風景になって。
お母さんの納骨の時は、車の外なんか殆ど見えて無くて、こんな所だったんだって驚いて。
景色は確かに綺麗なんだけど、線路沿いの民家がかなりまばらで。何か寂しげで。
降りた駅も無人だったし、駅すぐ横のバス停、日に三つとか四つしか時刻書いて無くて。
人通りとか全く無くて。これは確かに、一人で来るのはちょっと不安かなと思った。
道は彼女が覚えていて、まっすぐお寺まで行って。お墓の前立つと、妙に緊張して。
作法とか知らなくて。見よう見まねでお墓洗って。水取りかえて。少し、手合わせて。
彼女がそのまま動かないのを、半歩くらい後ろで待ってて。振り返った彼女は、笑ってて。
「帰る。」「もういいの?」「泣くかも。」「いいよ。」「禁止だもん。」
言い終わるより早く、歩き出してて。何度か振り返って、お寺出て。駅戻った。
帰りの汽車まで一時間半待ちくらいで。屋根はあっても直射日光浴びまくりで。
時間潰すのと、暑さをちょっとでも避けるために、涼しいとこ探して散歩する事になって。
木が茂ってる林道みたいな所でベンチ見つけて座ると、彼女が突然、話し出した。
ここがお婆さんの里で、お母さんが育った所でもあると言う事。
彼女のお爺さんも若い頃に亡くなっていて、お婆さんが女手一つで育てたと言う事。
お父さんとお母さんはご近所さんで、二十一歳と十七歳で結婚したと言う事。
お母さんが二十歳の時に、彼女が生まれて、名前はお父さんが決めたと言う事。
彼女も、小さい頃はこの町に住んでいたと言う事。勿論全然覚えてないと言う事。
お父さんは、林業と運送をしてたと言う事。二十七歳の時、事故で亡くなったと言う事。
車両や道具の借金(ローン?)が払えなくなって、自己破産して三人でこの町を出たと言う事。
お父さんが亡くなると、お父さんの家とは縁が切れてしまったとしまったと言う事。
お母さんが元気な頃は、期間工として精密機械とかの工場で働いていたと言う事。
工場の寮に三人で住んで、工場が変わるたびに引っ越しと転校をしたと言う事。
お母さんが倒れて、その時いた工場の寮にいられなくなったのが、今の町だと言う事。
アパートを借りたら、お母さんの貯金はもう殆ど残っていなかったと言う事。
お婆さんが働いたけど、お婆さんも体を悪くしてすぐ辞める事になってしまったと言う事。
蓄えが無くなって、生活保護を受けるようになって、今のアパート移ったと言う事。
福祉課の担当さんの尽力と大家さんの厚意で、敷金礼金なんてのも無かったと言う事。
誰が何を言っても、お母さんは絶対に病院に行かなかったと言う事。
彼女を一時的に施設に預けては、と言う話が出た時、お母さんが拒絶したと言う事。
お母さんが時々アルバムの写真を見ながら、お父さんの事を話してくれたと言う事。
その時のお母さんは本当に楽しそうだったと言う事。
「楽しい思い出がたくさんあるの。」口癖のように、そう言っていたと言う事。
「楽しい時があるからね。」そう言って抱き締めてくれたと言う事。
お母さんと最後に話した時「お兄ちゃんにお礼、言ってね。」そう言っていたと言う事。
記憶と聞いた話を彼女の中で整理しながら、ゆっくり話してくれた。
何で話すのか。どんな顔してればいいのか。解らなくて。彼女の方に視線、向けられなかった。
一度話すの止めて、少しして。「…お母さん、羨ましかったです。」ぽつんと言って。
「楽しい事とか、無かったから。ホントかなって。」そのまま、暫く黙って。
思わず、肩に手乗っけたら、頷いて。下ろそうとした手、取られた。
「あは。ホントだったんですけどね。」木漏れ日に照らされた笑顔が、眩しくて。
「優しくして貰って、始めて嬉しかったし。」「…始めて?」
「みんな、お母さんのついでだったから。」またちょっと顔曇らせて。
お母さんは綺麗な人だったから、下心持って近付く男性もいたみたいで。
家の状況知ると、親切めかして経済的な援助を持ちかけたり、お金でつろうとしたり。
彼女に対しても何か買ってくれたり食べさせてくれたりって事もあったけど、
お母さんが交際を断るとぷっつり来なくなったり、怒ったり。仕事首になったりもして。
そんな事が何回かあると、彼女も幼いながらに嫌悪感みたいなものを感じて。
小学校の時の優しい先生も、お母さん前にして話す時といつもとは違ってて。
その何か変な感覚が、凄く嫌で。男の人ってみんなそうなのかなと、思ったらしくて。
男性に優しくされたり、親切にされたりって事自体を警戒するようになった。
でも何故か俺には、その警戒感を感じなかったらしくて。あれ?って感じで普通に話せて。
お母さんに対しても彼女に対しても、普通。この人は大丈夫。そう思ったらしくて。
そこまで話して、彼女は俺見上げて。少し顔緩めたかと思ったら、くいくい手引いて。
「ねぇ。お兄ちゃんがやさしいのって、何でですか?」突然そんな事言い出して。
「何で?」「ん?」「何で優しいんですか?」「んー?」「なんで?」「んー…?」
だんだん、声に甘えが含まれてきてて。「なんで、ですか?」上目遣いで。揺さぶられて。
あれこれ考えるのも面倒だし、思い浮かばないし。だったらもういいやって感じで。
「好きだから。」「…あは。」「これでいい?」返事せずに、腕に掴まって。
結局言わされたというか。誘導されたというか。またか、って感じではあったけど、
重い話の後だったから、それがなんとなく和らいで、助かった。
「何か飲む?」殆ど一時間話詰めの彼女気遣って言ったら、頷いて。
駅帰る道で自販機探して。駅前でやっと見つけて。小銭入れて、彼女がお茶のボタン押して。
「半分ください。」って俺に渡して。何気なく半分飲んで、返して。
彼女、くーっと全部飲み干してから「あは。関節キス。」とか言い出して。自分で照れて。
「ごめん。」つい言って。「大丈夫です。」顔ほてらせて。はにかんで。何故か肩叩かれて。
「大丈夫ですから。」念押されて。うつむいて顔上げなくなって。思わず、撫でた。
帰りの汽車に乗って。やたらくっついてくる彼女がいて。周囲に目が気になって。
来る時と同じく、やっぱり目閉じて眠ろうとしてるんだけど、完全に甘える態勢で。
周りに人いるのに、部屋にいる時と同じ位置。左斜め下。距離ゼロ。密着。
時々肩に頭とか額当てて。見上げて。また目閉じて。ずっとそんな感じで。
髪の匂いがやたら気になって。彼女に対しても、周囲に対しても、平静を装うのに苦労して。
それでも、彼女が酔いもせず、どこか心地よさそうにしてるのをみてると、安心して。
今なら聞けるかなと思って「誕生日、何か欲しい?」彼女は目開けて、見上げて。少し考えて。
俺がしてた腕時計、触って。「これ。」その時してたのは、黒のGショックで。
高校の時に凝ってた迷彩柄に合わせて買った、ごつくて無骨な、大きいやつ。
どう見ても彼女には不釣り合いだと思ったけど、欲しいならって感じで。
「探すよ。」彼女、首振って。「これがいい。」してるそれを欲しがって。
とりあえず外して、彼女の腕に巻いてみて。一番細いとこまで絞って、やっとくらいで。
左腕に俺のだった時計。やっぱりアンバランスな程大きくて。でも嬉しそうで。
「いいの?」「うん。」「中古だよ?」「お兄ちゃん、いつもしてたから。」
あんまり答えになってなかったけど、とりあえず喜んでるから、よし。そう思う事にした。
彼女は移動と、たくさん話したのと、歩いたのと、太陽の下に長くいたせいか、ちょっと疲れてて。
電車に乗り換えてからは、熟睡。初めて見る寝顔。やたら安楽そうで、嬉しかった。
夏休み前の実習終えると、暫く休み。貴重なバイトの時間。
ずっと使って貰ってた、建材屋さんでのバイト。リフト乗ったり、トラックの助手席乗ったり。
馬力があるからと、荷下ろし要員として結構待遇が良くて。居心地も良くて。
時間あれば八時半入り五時半上がり。働いてる実感があったし、昼弁当が出るのも、嬉しかった。
大量の運搬終わってやれやれって感じで事務所帰ってきた時、事務長さんがメモくれて。
「電話。女の子。」え、って感じで受け取って。何か嫌な予感がして。電話借りてかけてみて。
電話番号は総合病院の内科病棟で。彼女とお婆さんの名前言ったら、彼女呼びだして貰って。
「どしたの?」「おばーちゃん、入院しちゃいました。」微妙に声、違って。
朝からフラフラするって言ってたから病院行くの進めたら、そのまま入院になってしまったと。
とりあえず顔出す。それだけ言って受話器置いて。早上がりさせて貰って、病院行った。
繋ぎの作業着腰に巻いて安全靴って姿のままで病室行ったら、点滴吊ってるお婆さんがいて。
お婆さんのベッド脇に座ってた彼女が、殆ど走って。目線真下、ってくらいまで来て。
「ご、ごめんなさい。」「いいよ。」「脱水症状…。」「うん、聞いた。」「仕事…。」「いいから。」
動揺激しかったのか、僅かに声上擦ってて。俺までそうなっちゃ駄目だと、落ち着こうとして。
「入院ですか。」「おおげさにせんとって。ついでよ。ついで。」お婆さん、笑って。
脱水症状自体はごく軽い物で、点滴は用心の為。様子見の入院のついでに、健康診断。
医師や福祉課の人が進めてくれて、費用は保護でまかなえると言う事で、
「いい機会だから。」ってな感じの軽い感覚。一泊して静養、異常無いようなら検査開始。
更に一泊して、問題なければ退院。その間、彼女が一人になるのがお婆さんの心配で。
「子守り、お願いできるかねぇ。」「いいっすよ。」簡単に引き受けて。
子守りって表現、嫌がるかなと思ったけど俺の手持って「お願いします。」だけ言って。
やっぱり何かいつもと違ってて。帰る道で「あ、あは。どーしよう。」言ったきり、黙って。
「何もないよ。」根拠無しでそう言うのが精一杯だった。
お婆さんいないから、食事は一緒にした。タイ米のレタスチャーハンとオニオンスープ。
初めて作ってもらって。おいしくて。誉めたら「お母さんの味にならないですけど。」
恥ずかしそうに言って。思わず、撫でて。嬉しそうに、顔緩めて。やっと少し笑ってくれて。
俺の部屋で、いつもの時間。横来て、チラチラ俺の方見て。つんつん、肩つついて。
「…居てもいいですか?」「ん?」「…多分、寝れない。」照れながら、言って。
聞きもしないのに、部屋で一人で寝た事無いからなんて言い訳始めて。また思わず、撫でた。
彼女は八時くらいに学校に行く。その時起こしてと頼んで。夜の十時ごろ。もう寝る事にして。
「お風呂入ってきます。」って、彼女が一端帰って、俺もシャワー浴びる事にして。
十一時頃になって戻ってきた彼女、Tシャツジャージ姿。制服以外で見たいくつかのうちの一揃い。
彼女が部屋入ってくると、石鹸の匂いがふわっと香って。一瞬ドキッとさせられた。
「布団持ってくる?」聞いたら「ここ。」って、座ってたベッド、ひとつたたいて。
その時はまだ、そこまで甘えるか?と言う感覚。その時はまだ、完全に子守りだなって感じで。
「狭いよ。」「…あは。平気。」問題無い言う感じで。断る理由が無くて、まあいいいかと。
彼女が全部消すの怖がって、豆球点けた状態でベッド入って。お互いの表情くらいは伺える暗さ。
殆ど真横に彼女の顔があって。部屋で座ってる時なら当たり前の距離なのに、妙に意識して。
胸の上に乗っけた手でシャツ掴まれて、更に身体寄せられて、くっつかれて。
体の右半分に、彼女の身体の感触感じて。…意外と、女の子なんだな。そんな事考えて。
だんだん体温感じて。ちょっと変に意識して。打ち消して。少し離れようとしたら、手に力入って。
「…やだ。怖い。」短く小さく、でもハッキリ言って。驚いて。
「怖いって?」聞いても、答えはなくて。また手に力入って。微動だにも出来なくなって。
寝れるかな、これ。色々考えてるうちに寝息聞こえて。助かったと思った。
でもかなり心拍数が上がって。寝られる状態になるまで、時間かかった。
何とか寝られて、朝は彼女に起こして貰って。送り出す前に、合い鍵渡した。
特に理由は無くて。お婆さんいないなら、こっち来てればって感じで、他意もなく。
それが彼女には嬉しかったみたいで。凄く大事そうにカギしまい込んだのを覚えている。
彼女は学校で、俺はバイトで。どっちも終わってから行くと、面会時間が過ぎる。
俺は中抜け出来たので、様子を見に行った。お婆さんは食後で。談話室でテレビ見てて。
いろんな検査があって退屈はしないけど、消毒と薬の臭いで鼻が変、みたいな事言って。
「一緒に寝て、言われた?」小声で、いきなり聞かれて、動揺隠せなくて。
「言われました。」正直に言って。「すいません。」つい謝って。笑われて。
「こっちがすいませんよ。あれ、恐がりのあまったれやから。」そうなると思ってたみたいで。
「あんたみたいな人、おってくれてよかった。」お婆さんはそれまでと同じ軽い調子で、
「私がどがいかなっても、あの子ぱっとほたったりせんやろうし。」方言混じりで言って。
ほたる、と言う表現。俺らの地方では、放っておくと言う意味で使うのが普通。
でも、捨ててしまうと言う意味に使う事もあって。前後の感じからして、後者の感じがして。
「しないですよ。」反射的に言って。「ありがとうね。」急にかしこまって言われて。困った。
バイト終えて家帰ると、彼女はもう部屋にいて。ベッドの上で壁に持たれて、本読んでて。
ポケットから何か出して「貰っていいですか?」部屋に転がってたカラビナにカギ付けてて。
いいよ、って軽く言って。やっぱり彼女にはあわない持ち物だけど、喜んでるから良し、で。
その日は暑い上に配達きつくて、疲れてて。さっさと風呂浴びて、寝ころんだ。
その俺に、彼女はやたらまとわりついてきて。結局、昨夜と同じ態勢で、言葉無しで。
ただ、そうしてる時は不安げな表情がやわらいでて。いつの間にか、深く寝入ってて。
明るい中で寝顔見てると、あどけないと言うか、やっぱりまだ子供っぽさも感じて。
子守り。これは子守り。自分に言い聞かせて。色々抑えた。
入院までして検査して解った事はたった一つ。お婆さん、全く異常無しの超健康体。
脱水症状は、内職頑張りすぎたから、と言う程度の物で、後も引かなくて。
病院のご飯が量が多くて、食べるのに苦労したとか力の抜ける事言って、笑わせてくれて。
家戻れて、すぐ内職始めたお婆さん、少しは休めと言う彼女と早速軽いケンカしたらしくて。
「からこうたら、戻ってこんようなったんよ。」そう言って大笑いして。
また多分俺との事に引っかけて何か言ったんだろうなと思って、部屋帰った。
彼女は多分、ベッドにぽて、と倒れ込んだまんまの姿で伸びてて。俺に気付いて、膝抱えた。
病院嫌いのお婆さんが病院行ってしかも入院、それだけで緊張しきってた彼女、
反動で気が抜けたみたいで。「大丈夫?」「はい。」頭に手乗っけて、ぽんぽんやって。
「良かったよ。」「心配して損した。」「損したゆーな。」「あは。」わしわしやって。
やっと、彼女の普通の笑顔になって。それで俺も安心して。
彼女がぽん、ってベット叩いて。横座らされて。くたっと力抜いて、もたれかかられて。
「…お兄ちゃん、いてくれて良かったー…。」お婆さんと同じ事言って。
「信じてちゃっていいんですか?」いきなりで。「何?」「病院でおばーちゃんと話した事。」
それか、って感じで。「うん。」それだけ言って。頷いて。彼女の反応待った。
「…あは。信じましたからね。」「うん。」「約束ですよ。」「うん。」立て続けに、頷いて
俺なんかでも、支えみたいなものになってるっぽい。そんな事を思うと、責任感じだして。
ちょっと重みを感じはしたけど、それも全部ひっくるめて彼女なんだと思った。
その日、彼女は定時で帰った。帰る前に「また泊めてください。」シャツ引きながら言われて。
返答に困ったけど、やっぱりダメとは言えなくて。「いいよ。」って言ってしまって。
「あは。やっぱり、お父さんみたいだったです。」そんな事言って。お互い照れた。
七月の末。彼女とお婆さんの引っ越しを手伝った。
福祉科の担当さんの勧めで市営住宅への入居希望を出してみたら、
生活保護世帯で高齢者と義務教育中の児童の家庭は優先順位が高くて。すぐ決まった。
入居が出来る事になった時、お婆さんは彼女より先に俺に相談を持ちかけて。
市営住宅は家賃が安くて、たしか一万三千円くらいで、あの時住んでたアパートの半分以下。
家賃共益費水道代込みで二万八千円(内訳忘れた)で、水道代払っても、一万円は浮く計算。
「引っ越し、手伝いますよ。」そう言ったら「あの子が何というかよ。」少し迷ってて。
俺と会って仲良くなってからの彼女は、それまでとは全く変わったらしくて。
「当たり前の女の子の顔になってくれてね。」お母さんが言ったのと似た事を言って。
彼女が俺と離れて住んで行き来が無くなったら、元に戻るのではと不安がってて。
時々でも会ってやって欲しいと頼まれて。「会えないと寂しいですから。」素直に言って。
転居先は歩いて二十分くらいの所。その気になれば、すぐ行ける距離。何も問題は無くて。
「あんたがそう言うてくれたら、話がしやすいけんね。」お婆さんも、安心してくれて。
でも伝えてみて引っ越すのは嫌だと言えば、無かった事にすると言って。
彼女が買い物から帰ってきて。お婆さんと話して。そんな長くかからずに俺の部屋に来て。
さてどんな反応するかな、と構えてたら「時々ですか?」それだけ言って、俺の答え待ち。
真横来て。左斜め下からじぃー…っと見上げられて。「いつでも。」少し訂正して。
「毎日は?」「いいよ。」即答してしまって。彼女は頷いて、一つ息吐いて。笑って。
「引っ越す。」「決めるの?」「あは。おばーちゃん、ちょっとは楽かなって。」
二人は、意地張り合いながらも気遣い合ってて。意思の統一が図れれば、行動は早かった。
入居の準備整えて、引っ越し。家財道具運ぶのにバイト先でトラック借りられて、助かった。
小さなテレビと冷蔵庫。洗濯機。ガスコンロ。テーブル。衣装ケース三つ。学用品と本が少し。
内職の材料。箱一つの日用品と食器。三冊のアルバム。それで全部の、小さな引っ越しだった。
彼女とお婆さんが住む事になったのは、平屋建ての長屋みたいな所の端。3DKで。
五世帯が二棟連なってる長屋の住人、高齢者ばかり。高齢者世帯向けの市営住宅だった。
俺と彼女の間での行き来は、何も変わらなくて。俺が休みとか家にいる時間は、来てて。
学校が夏休みになると、朝方から俺がいなくてもカギ開けて入って、待ってる感じで。
待たれてるとなると、バイトとか実習とか補講が終わるとすぐ家に足が向いて。
「おかえりなさい。」言って貰って。休日も、何がある訳でも無いけど一緒にいる感じで。
最初の頃は、七時頃には彼女家に送り届けて、お婆さんに挨拶して、おやすみ言って帰ったり、
そのまま夕食御馳走になって。お返しに何か届けて。またお返しされてって感じで。
そのうちに彼女が俺の部屋にいる時間が長くなって。彼女が夕食作ってくれる事も多くなって。
のんびりしすぎて、気がついたら遅い時間になってたりで、慌てて彼女の家まで出発したりで。
俺の部屋から市営までは、国道沿い歩いてほぼ真っ直ぐで徒歩二十分。軽い散歩程度の距離。
学校の近所で。近隣に住んでた友達とか講師とかと出くわしたりする事もあって。
逃げる訳にもいかないし腹決めて紹介して。俺が口に出して「カノジョ。」って言うと、
照れなのか顔赤くして、はにかんで。俺の後ろ隠れて。背中くっついて。それがかわいくて。
ほぼ全員に後から学校とかで「かわいかったー。けど何歳?」って事を聞かれて。
ちっちゃくて肉の薄い彼女は実年齢より下しか見えなくて。一番気になる部分だったみたいで。
中二で十四歳と言うと、ギリギリセーフと言う判定をされる事が多くて。
ロリコンとか変態とか、きっつい言葉も覚悟してたけど、結構反応柔らかくて、意外だった。
…でもこの頃、彼女と歩いてて、初めて職務質問をされた。夜十時くらいだったと思う。
若いお巡りさんに呼び止められて。彼女の年齢とか俺の立場とか聞かれて。素直に答えて。
彼女を家に送ってる所だと言うのは信じて貰えて。もう少し早く返すようにと言われて。
お巡りさんの口調が丁寧で、印象が悪くなかったから腹が立ったりはしなかった。
けどその話を友達にしたら「犯罪の臭い、したんじゃない?」そんな事言われて。結構へこんだ。
専門学校二年目の俺には夏休みなんて物は無くて、実習と補講。休みはバイト。その繰り返し。
実習にも慣れて、とにかく事故だけ無いように終われればと緊張感は保っていたつもりだった。
けど実習終えて打ち上げやって、家帰って寝て早朝に変な腹痛起こして。救急車自分で呼んで。
何か普通じゃないと思ってたら急性膵炎で。即入院と絶飲食を言い渡されて。呆気にとられた。
空いてる大部屋が無かったから、差額無しで二人部屋に一人。点滴入れながら呆然としてて。
彼女に連絡入れたのは昼頃。いるだろうなと思って俺の部屋に自分で電話して。出てくれて。
入院する事になったと告げると、最初冗談かと思ったらしくて。なかなか信じて貰えなくて。
でも病院名と病棟、部屋番言うと信じて。「準備して行きます。」落ち着いた声で言って。
俺の家からは、自転車で三十分くらいの所。俺の自転車使って来てくれて。
部屋入って左腕に三本点滴入れてる俺見て笑って「あは。似合わない。」思わず、撫でて。
お婆さんの時みたいな動揺は見せなくて。俺も安心できて。しっかりした所も見せてくれて。
着替えとか適当に詰めた袋持って来てくれてて。考えても無かった事で感心して。
よく気がついたね、的な事言ったら「看病、慣れてます。」そう言って、笑って。
どのぐらいの入院になるのかとか、どんな病気なのかとか、彼女の方から聞いてきて。
軽症の急性膵炎で、状況見て退院までが一週間ほど、一週間静養して、検査に問題なければ放免。
医師のしてくれた説明を彼女にもして。お婆さんにも心配しないでと伝えるの、頼んで。
彼女の顔見てホッとしたら色々思い出して。公衆電話で学校とバイト先に事情話して休み貰って。
学校の方は、実習も済んでて記録とかも提出してたし出席も足りてたから不安はなかったけど、
バイト先の方は俺と組んでくれてる人とかに申し訳ないし、経済的にも不安だった。
少しは貯金あるし何とかなるか。そんな事考えながら病室帰ろうとしたら、
彼女に点滴してない方の腕引っ張られて「えっと。じ、実家には?」完全に忘れてて。
電話したら婆ちゃんが出て「言うとく、言うとく。」それだけ言って切って。
まぁ伝わりはするだろうと思って、部屋帰って。その日は彼女の命令で、大人しく寝てた。
入院中、彼女は昼頃に洗濯物取りに来て、夕食前の時間まで話し相手になってくれて。
洗濯は病院でも出来るし、そんな事させていいのかなと思ったけど、つい甘えて。
来ないとなると寂しかっただろうから、何も言わず、世話かけてしまって。
親父は仕事で来れなくて、おかんが俺の部屋泊まって面倒見てくれるつもりで来てたけど、
彼女と会って。毎日来てると知って。「おらんでいいね。」って帰ると言いだして。
おかんは彼女とお婆さんと会って、食事して。一日泊まって、朝また来て。昼には帰った。
おかんも彼女の家の事は親父から聞いて知ってて。どんな話したのかなと、気になって。
昼過ぎに来てくれた彼女に聞いたら「あは。ごめんなさい。」いきなり謝られて。
「え、何?」「ばれちゃいました。カノジョだって事。」言って見上げてすぐ、視線外して。
「え、誰に?」「お兄ちゃんのお母さんとおばーちゃん。」照れまくりな彼女がいて。
身内に知れるのはさすがにまだちょっと色々早すぎると思ってて。結構、慌てた。
「おかん、何て?」「お願いしますって。」「お願いって。」何をだよって感じで。
「他に何か、話した?」「あは。仲良くして貰ってる事…とか。」内容は聞けなかった。
やたら嬉しそうな彼女をこれからどう扱っていいのか解らなくて。結構長く悩んだ。
けど結局、何も変えない事にした。それが一番、楽だった。
頑健な印象を持たれる事が多い俺が入院。学校の友達が面白がって見舞いに来てくれて。
その時のクラスの男女比が4:1くらいだったから、必然的に学内の友達は女の子が多くて。
彼女はそれが気になって。「…もしかしてもてる方ですか?」そんな訳は無くて。
七割方は俺の見舞いにかこつけて彼女を見に来てるって感じで、それ説明したけど、
男女比が異常に偏るのに彼女は納得がいかないみたいで。何か落ち着き無くして。
困ってたらバイト先の人が来てくれて。女の子ばっかりじゃないと言えて。助かった。
バイト先の人達はみんな来てくれたし、実習の指導員してくれた人までわざわざ来てくれて。
気にかけてくれる人がたくさん居てくれて。かなり励まされた。
四日間点滴だけで。五日目から徐々に食事戻して、一週間。やっと数値が戻って退院出来た。
入院中に体重が七㎏減ってて枯れた感じ。その上にさらに食事療法を言い渡されてて。
退院前に医師と栄養士さんに指導受けて。一週間は蛋白質や油物は控えるようにと言われて。
病院の食事が、肉と油殆ど無し。反動来てて。喰いたい物はたくさんあったけど、
「控える」と言う言葉を「無い方がいい」と理解した彼女にかなり厳しく見張られて。
買い物行ってお総菜とか手伸ばしても、ん…っと下から強い目向けられると、手に取れなくて。
俺が諦めると、よし。って感じで表情緩める彼女がいて。監視付き仮釈放。そんな感じで。
けど病院では周りの目があって距離あけてた彼女が、部屋では横来てくれて。
体寄せてきて。俺の手捕まえて。腕くぐって。胸に顔乗っけられて、思わず肩、腕で包んで。
久しぶりに彼女の髪の匂い感じる距離。こっそり髪に鼻寄せて、吸い込んで。
それで落ち着いてたら、不意に腰触られて。くすぐったくて。思わず体よじった。
「痩せちゃいましたね。」「戻さないと。」頷く彼女に流れで「肉喰っていい?」聞いたら、
「あは。治ってからですよ。」キッパリ言われて。これはもう駄目だと思った。
けどやっぱりガッチリ見張られてるとちょっとイラッと来て。でも直には言えず。
「きつすぎだよ」だったか「やりすぎだよ」だったか、背中に小声で言ったら、聞こえてて。
振り返って。視線落として。でもすぐ俺見上げて、薄く笑って。言葉、絞り出して。
「お、お医者さんの言う事聞かないでお母さんみたいになったらやだもん。」
斬りつけるような言葉で。何食いたいとかそんな事は、口が裂けても言えなくなった。
お婆さんは痩せたままの俺見て「全然食べんのもええ事ないんやない?」って心配してくれて。
「ごめんね、言い出したら聞かんのは母親似やからね。」そう言って目、細めて。
だんだん彼女がお母さんに似てきたのを喜んでて。お母さんがどんな人なのか、
俺はあまり知れなかった。けど彼女見てると、意思の強い人だったんだろうなと。そう思った。
退院して四日目か五日目が土曜で。昼前に親父が来てくれて。当然、彼女も居る時で。
二人が会うのは、お母さんの納骨以来。二人が話したのは、軽い挨拶程度だった。
後は俺の体調の事とか入院費用の事とか、保険の請求があるから領収書取っておけとか、
無理はするなとか、就職活動どうだとか、無難な事で。電話で済むだろ、って感じの内容で。
それよりも話してる間、彼女がずっと正座で姿勢良すぎて。不自然すぎて。おかしくて。
お婆さんに挨拶する、って言って親父が部屋出てから、「何で正座?」って聞いたら、
「あは。ちゃんとしないといけないかなって。」意識しすぎだと思ったけど、とりあえず撫でた。
お婆さんと親父と、どんな話してるのかとやっぱり気になったけど、夜になって電話があって。
彼女の事を「明るい顔になってたなぁ。」親父も言ってて。お婆さんに感謝されたと言って。
「よくやったよ、お前。」何したつもりもないけど、何か役に立ってるんなら、嬉しくて。
親父は彼女と俺の事については、何も言わなかったけど、最後に一言。これはちょっと重く、
「いいお兄ちゃんでいろよ。な。」後で含まれる意味を深読みして、悩んだ。
退院して一週間後、病院で採血して、結果良好で完全回復。思った事は、やっと肉が喰える。
検査結果見て貰って、顔全部で笑う彼女に「牛丼喰っていい?」聞いて、許して貰って。
脂気無い生活からいきなりで、胃も小さくなってて、食べあぐんで。並盛り少し残した。
牛丼が初めてだった彼女、重そうに丼持って「おいしい。」言いながら頑張って全部食べて。
彼女より喰えない自分に驚いて。ショック受けて。でもそのくらいしないと治せなかったのかなと、
退院してからの一週間、看病と言うか監視をしてくれた事を改めて彼女に感謝して。
「埋め合わせするから。」そんな意味の事を言ったら「いっぱいお世話になってますから。」
だからお礼言う必要もないしお返しとかいらない。その一点張りで。何もさせてくれなかった。
あの入院以来、家族ぐるみと言うか、俺と彼女とお婆さんだけの付き合いでは無くなった。
特におかんと彼女の連絡は、頻繁になって。二人が電話で長く話してると、何か妬けた。
社会復帰して、徐々に体も慣らして。体重は一ヶ月くらいで元に戻って完全復活。
卒論仕上げて出席も単位も足りてたから講義とかにも行かずに就職活動に集中。
どこで就職するかというのが問題になって。親父とおかんにも一応相談はした。
「まさか帰ってくるつもりじゃないよな。」その言葉で予定通りアパート近辺に絞って探し始めて。
今思えば物凄く楽観的で。何とかなるだろうとたかをくくって淡々とやってた感じで。
それでもそこそこ体格のある男と言うのは介護の現場では重宝がられるからか、
履歴書と健康診断書提出してそれで落ちるなんて事はなかったし、面接の感触も良かった。
結果、三施設から内定貰って。老健か病院併設のリハビリ施設かで悩んで。
人を治す仕事に関わりたい気持ちが強かったので、病院の方を選ばせて貰った。
学校終わって直接うちに来た彼女に報告したら「えっと、どこですか?」勤務地をまず聞いて。
住所言って、地図見せたら改めて「おめでとうございます。」言ってくれて。
喜んでくれてるかと思ったら、突然すっと涙流して。えー!?って感じで、慌てて。
「ちょっと待って、待って、何で?」「あ、えっと…あは。」ペタ座りして、放心して。
時々「おーい。」とか声かけても「…あは。」力無く笑うだけで。もう、撫でるしかなくて。
張りつめてる彼女は結構見てたけど、抜けきった彼女を見るのは始めてで、ちょっと意外な顔で。
帰らないと言ってはあったけど、まだ不安を感じていて。彼女らしく、表には出さないでいて。
でも就職ちゃんと決まって、安心して。それで一気に、気持ちが弛みきったみたいで。
彼女が動く気配が無いから、食事作ったりして。食べさせて。やっと少し、戻って。
「もう大丈夫?」「…です。」「驚いたよ。」「…ごめんなさい。」妙にしおらしい彼女がいて。
俺の表情伺いながら、何度かためらって。やっと自分から口開いて。
「えっと。これからも一緒にいてくれるんですか?」まだ少し目に不安さ感じて。
「そのつもり。」努めて普通に答えたら「つもりって何ですか?」問い詰められて。
照れくさかったけど「一緒にいてよ。」言わされて。やっと、普通に笑ってくれた。
就職内定が十月半ば。早く決まって安心はしたけど、二月からは土日に研修が始まって。
三月末までには現場に出られるレベルになれなければいらないよと、要するにそう言う事だった。
卒業試験と学校内の資格試験は勿論絶対に落とせない。そう思ってはいたけど危機感を持てなくて。
結局バイト中心の生活。仕事して帰ったら彼女がいて。夕食食べて。送り返して。
「あんたらもう一緒に住んだら?」お婆さんに冗談で何度も言われたけど、さすがに無理で。
ちゃんと家に帰らせる事が最低限の義務と言うか。守らなきゃならない一線のような気がしてた。
家の方にも内定決まったと連絡したら、親父は「よくやったよ。」いつも通り、一言だけで。
後は就職したらなかなか休みも取れないんだろうし、今年は帰って来いよと。それだけで。
長いこと婆ちゃんにも会ってない、自由に休めなくなる。その年は年末年始に帰省する事にして。
おかんが勝手に彼女と話し進めてから「帰るんなら二人にも来て貰う?」俺に言って。
一緒に帰る事になりかかってたんだけど、俺の家に本家のおばさんから電話があって。
久しぶりだったんで就職の事とか学校の事とかちょっと話して。話が彼女の事になって。
婆ちゃんに聞いたと言って。「可愛い子や言うてね。」言われて照れたら、
「でもいかんよ。ええほど遊ぶだけにし。」何の事か解らなくて、黙ってたら、
「親の無いようなのと一緒におったて、出ていく物は全部こっちからになるんやからね。」
「頃合い見て別れんとね。捨て銭いるようやったら、出すけんね。」受話器持ったまま絶句して。
嫁は私が探してるとか、暫く街で遊んだら帰って来て本家継げとか、意味がわからなくて。
「ごめん今日は切るから…。」それだけ言って、とりあえず親父に電話したら、
「やっぱりかよ。」その言葉で予測出来てた事だと知ったて、事情を聞いた。
本家のおばさんは父方の親戚筋で、農家。子供も孫も女の子だけで。跡取りが無くて。
何故か俺に目を付けて、小学校上がる前頃から俺を養子に出せと言い続けてて。
親父は断り続けてたけど専門学校入ったあたりで「いらん事を」と切れだして。
更に彼女の事を聞いて、激怒して。帰ってこないのは彼女の所為だという事になってて。
それ聞いて、俺にはやさしい人だったから、かなりショックだった。
本家の周辺では、葬式の時に跡取りが最前列中央に座って最初に焼香をする言う習慣があった。
今は形だけで、一番若い男子がその役。親戚内に男が産まれなくて、俺はずっとその役で。
でも本家のおばさんだけは決まり事だと言い張り、俺が本家の跡を取るのが筋だと言いだして。
それが行き違いの最初。俺の知らない所で、親父はずっとおばさんと揉めていた。
親父が梃子でも動かないから俺を動かそうとして。毎日必ず夜中に電話がかかってきて。
おばさんは車買ってやるとか、毎月十万小遣いやるとか言って俺を揺らそうとして。
でも結局言いたい事は「彼女は捨てて帰って来て本家の農家を継いで。」そう言うことで。
彼女とは別れる気は無いと言っても「子供がでけたらまた面倒増えるのよ。」唖然とした。
おばさんは俺と彼女が既に男女の関係だと思い込んでて。その部分はいくら否定しても無駄だった。
俺が「別れません。」としか返事しないと、彼女に弱みでも握られてるのかと言い出して。
「私が直に話したてあげようか?」勢い込んでたからちょっと強く止めたら、泣かれて。
「働く言うなら居らしてやってもはええけどそれじゃいけんの?解ってや、家には入れれんのよ。」
最大限の譲歩のつもりだったんだろうけど、中二の女の子に対して考えるような事じゃなくて。
キッパリ帰らないと告げると、俺が彼女から離れるならなんでもいいという感じになって。
おばさんが彼女を汚い言葉で貶めるのを聞くのは、明らかな嘘と解ってても辛かった。
俺にはおばさんを止める事が出来できなくて。親父にどうにかならないかと泣きついて。
親父が激怒しておばさんに止めるように言うと、親父とおかんは本家から勘当されてしまった。
おばさんは、本家と切れると脅せば慌てると思ってたらしいけど、親父もお袋も全く動じず。
事が思うように進まなかったおばさんは錯乱して、親戚中に電話かけまくって。
俺が変な女に掴まって家が滅茶苦茶になった、なんて吹聴して。他の親戚が心配してくれて。
俺や親父に電話したり直に来てくれたりもしたけど、事情話せば理解してくれる人が多かった。
親戚内で相手にされなくなり、同居してた本家の姉さん夫婦も子供連れて別居する事になって。
それ以後は、音信すらなくなった。六日間での出来事。全然頭がついていかなかった。
その年の彼女とお婆さん伴っての帰省は中止になった。
婆ちゃんが彼女の事をおばさんに話したのを気に病んで体調崩して寝込んでしまってたし、
おばさんが実家に彼女が居ると知ったら何かしてくるかも知れないと、親父が不安がって。
おかんが婆ちゃんの体調を理由にして彼女に謝って。彼女は残念がってたけど、
「お大事にってお伝え下さい。」婆ちゃんはそれ聞いて、ずっと泣いてたと聞いた。
婆ちゃんは本家のおばさんと歳近くて仲良かったから、一番辛い思いしたと思う。
俺がおばさんを納得させる事が出来ていたらそんな事もなかったし、
おばさんが孤立してしまうような事も無かった筈で。何もできなかった自分が情けなくて。
彼女には内緒で俺だけで朝一の電車乗って、晩に間に合うように帰る手筈で実家に帰った。
婆ちゃん見舞って。謝られて。泣かれて。気にしてないよと話して。就職の報告して。
親父とおかんにも謝ったけど「お前が謝ったらいかん。」怒られて。彼女を守れと強く言われて。
親父が仕事で必要になるから携帯買って、電話は止めろと言った。そここまでしなくてもと思った。
まだ、おばさんも時間経って落ち着けば理解してくれて、元通りになれるんじゃないかと思ってて。
でも「あの子の耳に入る事が無いようにだ。」そう言われると、従うしかなかった。
彼女が帰ってくる時間に何とか間に合って。家で何事も無かったかのように装ってたけど、
「お帰り。」言って座ってたら、横来ても座らずに、膝立ちで頭に手乗せて。撫でられて。
「どして?」「なんとなくですけど。」何かおかしくて。「逆じゃね?」「たまには。」
多分平静装いきれてなくて。婆ちゃんの事だけでなく他に何かあったと、気付かれてて。
どんな意図だったかは解らないけど、とにかく優しい手で。されるがままになってたら、
軽く頭抱えられて。よしよし。完全にそんな感じで。泣きそうになって。
「いいですよ。」彼女の言葉に首振ったけど、そのままでいてくれて。何とか我慢できて。
彼女の優しさは嬉しかったけど、かなり反省した。この子に気遣われたらいけないなと。
どうにか前向いて進める精神状態に戻せて。試験勉強にもやっと、力入れられた。
帰れなかった年末年始は、彼女とお婆さんの部屋で一緒に過ごした。
部屋暖かくして。こたつ入って。テレビ見ながら、年越しそば食べて。ごく普通の年末。
「ゆるい正月やね。」ぜんざい用の栗剥きながら、お婆さんが言ったのが印象に残ってる。
近所の神社で学校の友達と合流して初詣、そのまま新年会の約束してて。彼女も一緒で。
入院の後くらいから、見舞い来てくれた何人か彼女と仲良くなって。集まりにも呼ばれだして。
女の子達は俺と同年齢か少し上だから、彼女にはお姉さん的な感覚で世話やいてくれて。
今思えば、学校以外は殆どの時間を俺かお婆さんとしか過ごしてないってのは、普通じゃなくて。
人と会って話す機会が増えたのは、教育上?いい事だったのかなとも思う。
でも結構いらん事も吹き込んでくれて。困る事もあって。と言うかそれを楽しまれてて。
酒入ってくるとだんだん話題がやばい方向になる事があって。新年会がまさにそれで。
一番広い部屋住んでたやつの所に集まって部屋飲み、あとは自由って感じの新年会で。
俺が男二人と鍋の後始末やってる時に、彼女が何人かに部屋連れ出されて。
戻って来てすぐ脇に来た彼女、顔赤くて。妙に近くて。これは何かあったなとすぐ解って。
でも今聞いたらやばいと何か直感的に感じて。そのタイミングでは聞かずにいた。
色々やってて、彼女の瞼が落ちだしたのが四時くらいで。俺らは先抜けする事にして。
タクシー呼ぼうとしたら「勿体ないです。」彼女が言ったから、距離あるけど歩く事にして。
不意に彼女に手を繋がれて。外ではあんまりしない事だから、ちょっと戸惑って。
「さっき、何話した?」「はい?」「部屋出たとき。」「あ、う。え、えっと。」異常に動揺して。
「ん?」「え、あは。お兄ちゃんとどこまで進んでるのかとか。」あのバカ共はと。
さすがに呆れてたら「でも、ちゃんと、まだ何もして貰ってないって言いましたから。」
ほてった顔で一生懸命言った彼女だったけど、その答えもまた問題アリで。笑えてきて。
多分今頃、いい酒の肴にされてんだろうなとか思いながら、彼女の歩調に合わせて歩いた。
人並みの欲はあったけど、彼女を対象にする事は物凄い悪のように感じてて。歯止めになってた。
結局「お兄ちゃん」と言う立場に安住してた頃だと思う。彼女は不満かもしれなかったけど。
卒業試験と就業研修。肩で息しながら何とか走りきった感じ。ギリギリっぽいけど合格貰えて。
卒業と資格取得と就職決定。親父に報告したら、突然引っ越すように言われた。
アパートの持ち主が変わって土地が売りにだされるとかで、退居の要請が親父の方にあって。
敷金返還と引っ越し費用の負担の他に生活準備金?だったかを提示されてて。
親父は揉めるのも面倒だと感じてて。俺も無駄に時間取られるのは嫌だったから、
急な事だし住み慣れてたから残念ではあったけど、あのアパートを出る事にした。
彼女にその事話したら「…また遠くなっちゃいます?」予想通り、不安げな目向けられて。
「近くで探すよ。」初めからそうする気だったから、普通に言ったら安心してくれて。
彼女が休みの日に、一緒に不動産屋行って。まず市営から近いと言う条件で探して貰って、
その中から俺でも払えそうだった家賃の物件を抜き出して。彼女に「決めてよ。」言って。
「私がですか?」「いいよ好きなとこで。」「決めちゃいますよ?」「頼むよ。」
買い物にせよ何にせよ、何かを選ぶ事が苦手で。あのアパートに住むようになったのも、
学校に近い物件探して貰って一番最初に出てきた所が予算に合ったからと言うだけだった。
結果的にはその適当さのおかげで彼女一家と出会う事になった。不思議な縁だと思う。
時間かけて彼女が選んだのは普通の小さなマンション。いつも目にしてた建物だった。
部屋見たら小綺麗で。南向きで明るくて。家賃はちょっと高めだったけど、すぐ決めた。
またバイト先でトラック借りて引っ越し。本以外の家財道具は増えてなかったから一度で済んだ。
市営に近くなって徒歩で数分。お婆さんも心強いと言ってくれたし、良い選択だったと思う。
行き来が楽だから夜もギリギリまで居るし、一端風呂入りに帰ってまた来たりで。
お婆さんも一緒に食事するようになったけど「ここは寝るだけかね。」そんな事言って笑って。
「同棲の為の引っ越し?」一人暮らしには広いからか、部屋見に来た連中に言われて、
毎日家に帰ってるから同棲じゃないけど一緒にいる時間長いから半同棲。勝手にそんな判定をされた。
もう一緒にいる事が普通だったから、誰がどう言おうと、どうでも良かった。
正式に採用決まって。新年度からの勤務も決まって。俺の配属された場所は高齢者棟。
仕事始めまで少し日数があったから、ギリギリまでバイトは続けさせて貰って。
最終日に送別会やって貰って。社長さんからは就職祝いまで貰って。気持ちよく送りだして貰った。
四月の頭からは病院での勤務。その職場は女性の方が圧倒的に多くて。体力腕力期待されて。
殆どリフト扱い。でもバイトで担いでた物よりは軽くて。体力的なきつさは全く無くて。
休みは不定期になったけど夜勤がある分休日の日数自体は多くて、自由になる時間も増えて。
けど何もしなくていい日と言うのが学生の時は殆ど無かったから、ちょっと暇を持て余した。
彼女は中三。進路の問題が再燃した。俺もお婆さんも彼女の説得はもう諦めてて。
彼女が就職したらできる限りの事はする。もうその位しか考えられなかったけど、
親父に「楽観的すぎる」と切り捨てられて。説得出来ないと言ったら、暫くぶりに怒鳴られた。
「お前が投げてどうするんだよ。あの子に何が出来るんだよ。」返す言葉がなかった。
親父は九歳で父親亡くして。上のお兄さんの力添えがあって定時制高校と国立大学出た人で。
自分と似た境遇の彼女を、その頃の自分に重ねてた部分はあったと思う。必死な声だった。
おかんが彼女と話してだいぶ進学に傾いて。俺と行った職安で結構長く求人票漁った。
中学出てすぐの女の子が就ける仕事は限られていて。働いても得られる給料はたかがしれてて。
家族二人の生活を成り立たせる事は難しい。その現実を改めて見て知って。少し落ち込んで。
「フツーの生活って、難しいですね。」働いて、給料貰って、それで生活すること。
それが彼女の言う普通の生活。あの頃の彼女にはとても難しい事だった。
彼女は生活保護受けてる事を凄く嫌がってて。その立場から早く逃れたくて、就職を急いでいた。
生活保護イコール貧乏とお母さんの死。彼女の中ではそんな方程式が成り立ってて。
普通の生活がしたい。その願いが焦りを産んでいる状態。俺にもそのくらいは感じ取れた。
部屋いる時の彼女は、俺の膝乗ってきたり、背中にくっついたりで。静かに悩んで。
何か言葉かけようにも、出来ない雰囲気で。結局撫でて。自分の不安をごまかした。
何日かして。学校行く前に来て。俺の「おはよう」より先に「あと四年だけ、保護受けます。」
それで彼女の決意は解った。俺も「がんばろ。」だけ。彼女は「頑張ります。」
そう言って、小さくお辞儀して。その彼女の頭ぽんぽんやって、送り出して。
その時は、何よりも悩んでる彼女の姿をもう見なくてもすむ事が嬉しかった。
俺はその日は休日だったから、朝一でお婆さんのとこに様子見に行ってみたら、安堵した表情で。
俺の顔見るなり「ありがとねぇ本当に。」とお礼言ってくれた。でも何か納得いかなくて。
この時も親父の力借りて。結局何もして無くて。また彼女の横でそわそわしながら様子見てただけ。
それで感謝されて良いのかどうか。悩んだけど、落ち込みそうだから考えるのは止めた。
学校から帰って来た彼女は、ピンポン鳴らしもせずに鍵開けて入ってきて真っ直ぐ俺の横来て。
「あは。ちょっと気楽。」微笑して。瞳の明るさが増してて。その顔見ただけで『よかった』と。
ちょっとでもいい仕事探したいから高校いきます。彼女の出した結論。俺は頷くだけで。
市営の方行って、夕食一緒に食べながら、いつになく饒舌に話すお婆さんがいて。
「母親も高校も行かんと働いてさっさと結婚したけんね。そがいなるんやないかってね。」
そんな心配もしてて。となると俺も心配のタネだったのかなと思って。とりあえず謝ったけど、
「なに、謝る言う事はあんたそんな気でおったの?」突っ込まれて思わず彼女の方見たら、
食事の手止めて横目で見上げられてて。完全に俺の答え待ちで。何故か、何か変な汗かいて。
お婆さんに「本気で考えんでも。」そう言って貰って助けられたけど、彼女は納得して無くて。
部屋帰って座ったらつんつん、と肩つつかれて「ちょっとは考えてました?」じっと見つめられて。
全く頭になかった事だから「…まだ。」そう答えた。彼女はちょっと溜息っぽく息吐いて、
「…私ちょっと考えてました。」中学出て六月で十六歳だからとか色々言ってたけど最後に、
「でも便りきりじゃダメだし。自分で働いてご飯食べれるようになってないと、ですよね。」
真面目な顔で言った彼女が、可愛くて。「うん。それまでがんばろ。」口突いて出た言葉がそれで。
「お願いします。」やっぱり真面目に返されて。俺も適当じゃいけないなと。腹が決まった。
進学決めたからには、彼女も受験生。三者面談とか進路指導とか本格的に始まった。
進路に選んだ高校は彼女の成績からしたら普通にやってればまず落ちないレベルだったし、
学費とかの事も福祉科の担当さんに相談したら「勉強頑張ってください。」だけで、簡単にOK出て。
進学に関する金銭的な事はクリアできて一安心。お婆さんが凄く安心してくれて。
俺が彼女の一家に会ってからその時までは、常に何か不安とか心配とか抱えた状態で。
やっと訪れた、直面してる問題が無い状態。とりあえず何も心配する事が無い日常。
彼女もお婆さんもやっと少し緩んだ感じで。何となくのほほんとしていた。
お母さんのお墓参りも、とりあえず顔見せ。そんな軽い雰囲気で。遠足気分で行けて。
やっとお母さんの事を話す時も彼女の声に重さを感じなくなって。聞いていて安心できた。
俺も仕事に慣れると、月日の経つのが早く感じるようになって。毎月があっと言う間に過ぎて。
親父が「就職したら一年あっと言う間だぞ」と言ってたのをああこの事かと実感して。
研修は勤務扱いだったから夏のボーナスがほぼ満額出て。初めてまとまった金額手にして。
そのボーナスと学生の時の貯金とで車を買った。勿論中古。車検は長かったけど、安かった。
選んだのは彼女。黄色のキャロル。俺には似合わない。けど彼女が気に入ってたから良しとした。
それで行動範囲は広がったけど、俺は仕事。彼女は受験の追い込み。一緒に出かける機会も無くて。
結局初めて長距離乗れたのは、年末に俺の実家に彼女とお婆さんと招いた時で。
おかんが何ヶ月も前から俺に日程調整して絶対連れて来いとうるさくて。婦長さん拝み倒して。
発表された年始の勤務表見て。大晦日から正月二日連休貰えてて。胸撫で下ろした。
去年からの約束だったからとおかんも喜んで、彼女も直に会うのは久しぶりだと喜んで。
お婆さんは「あんたらだけで行き。」とか渋ってたけど親父と話して。行く事になって。
「すっごくキンチョーしてます。」「何で?」「だってお兄ちゃんの実家ですよ?」「それで?」
「か、カレシの実家呼ばれちゃったんですよ?」俺とは違った意識持ってる彼女がいて。
「ちゃんとしないと。」目が真剣で。何を?とか聞ける雰囲気じゃなかった。
大晦日の昼頃出発の予定で迎えに行ったら、もう既にかなり緊張した面持ちの彼女がいて。
車の中で何がそんなに心配かと聞いたら、その答えは意外にも婆ちゃんと会う事で。
親父、おかん、婆ちゃん。一人にでも嫌われたら今まで通りではいられなくなるかもしれない。
そんな風に重く考えてる事を知って。婆ちゃんは歓迎ムードだから心配ないと言っても、
「ちゃんとしてないとだもん。」考えすぎだとは思ったけど、俺まで少し不安になった。
家帰り着いて親父とおかんに帰ってきた連れて来たと報告してすぐ、初対面の婆ちゃんに紹介。
婆ちゃんに何やかや聞かれてその間中、きちんと正座。背筋伸びすぎ。受け答え、丁寧すぎ。
だんだん笑えてきて、時々視線で牽制されて。お婆さんと二人、笑い噛み殺すのに苦労した。
おかんが気付いて「今日はよそ行きなの?」って茶化してくれてやっと少し緊張解けて。
婆ちゃんの「うちの孫、よろしくお願いしますね。」って言葉に元気に「はい。」言って。
部屋に荷物置きに行った時に「…よかったぁ。」胸の前で、静かに小さく両手でガッツポーズ。
声弾ませて「これで家族全員公認のカノジョですよね。」その表現には、何か妙に照れた。
のんびりする為の帰省で特に予定無し。俺と彼女以外は酒入ったから、二人で初詣行って。
そこで地元の友達と出くわして。「あーあー、帰ってこねぇ訳だよなぁ。」それが第一声で。
連絡回されて、気心知れてる連中が八人集まって。ファミレスに場所移してそこで彼女紹介して。
激しく冷やかされたけど、彼女が真っ赤になって俯いたの見て止めて、馬鹿話経由で昔話に。
彼女は高校までの俺の事を興味津々で聞いてて。都合の悪い所伏せて貰うのに散々頭下げた。
久々過ぎて長々話し込んでたら、いつの間にか彼女寝こけてて。時間確かめたら朝の四時で。
先抜けする事にして、彼女おぶって店でようとしたら「結婚式呼べよ!」って誰かの声が飛んで。
俺もノリで「おう!」って返して店出て。少し歩いたとこで背中の彼女にほっぺたつつかれて。
「いつですか?」彼女聞いてたみたいで。「…。」「いつ?」「…大人になってから。」「あは。」
俺の首に腕巻いて、また寝入って。首に触れる寝息が暖かくて。なんとなく、遠回りして帰った。
大晦日と元日とのんびりして貰って。帰り際に親父と婆ちゃんは彼女にお年玉渡して。
部屋帰って二人になった時に「お年玉もらったの初めてなんです。」興奮気味で早口になってて。
喜びように驚いて用意しとけば良かった何て事を言ったら「それ変ですよぉ。」笑われて。
「カレシから貰うのは変です。」言い切られると渡せる感じでもなくて。親父達に嫉妬した。
その中身確認して「…わ。こんなにいいんですか?」かなり驚いて、困ってもいて。
親父とおかん連名と、婆ちゃんから一万円ずつで二万円。自分のお金として持つのは初めてだと。
何か欲しい物あったら買っちゃえば?そう言って連れ出したけど、行ったのは文房具屋と銀行。
印鑑買って通帳とカード作って「オッケーです。」何がオッケーなのか解らなくて聞いたら、
高校入ったらバイトするから必要になるし「アルバイトしてた方が就職有利みたいです。」
先見すぎと思ったけど大真面目に考えていて。俺にとっては部活やって遊ぶ時間だった高校生活は、
彼女にとっては就職までの足掛かりになる期間という位置づけ。歴然たる意識の差。
姿形は普通よりかなり小柄な中学生なのに、思考は二十歳過ぎた社会人の俺よりもかなり大人で。
ギャップ激しくて。どう接してればいいのか解らなくなりかけて、時々悩んだ時期だった。
お年玉は何に使うでも無く「無くなる予定が無いお金です。」通帳眺めて嬉しそうにしてて。
俺が十五の正月に貰ったお年玉の使い道を思い出すと、あまりに子供っぽくて恥ずかしさ感じた。
ふと気になって「入試大丈夫?」言ってみたら「ちゃんとやってますよ。」自信ありげで。
「心配しなくていい?」「ですよ。」「ホントに?」「って思ってないと。」やっと少し本音で。
選んだ学校はまず落ちないレベル。でも周りは塾とかでどれだけ伸びてるか解らないのは、不安。
俺や親父達やお婆さんが進学勧めて。進学決めたら一緒に行こうと喜んでくれた友達もいて。
「落ちれないですね。みんな期待してくれてるし。」重荷にならなければいいなと思ったけど、
「制服かわいいし。」付け足して。「まさかそれで?」「あは。ちょっと。ちょっとですよ。」
自分から頭持ってきて。手、乗っけて。そういうのもアリかなと、余分に撫でた。
二月の半ば過ぎに入試。入試前には同じ学校受ける友達を市営に呼んで一緒に勉強して。
彼女の学校での事は最初に聞いた時に微妙な雰囲気になって以来聞けなかったけど、
ちゃんと仲いい友達がいて楽しく過ごせてるってのは感じられて。それには安心して。
でも集まると話し始めるのは仕方の無い事らしく。身が入ってる様子は無いとお婆さんは笑って、
「なるようにしかならんからね。」気負ってるよりは安心してられると。俺もそう思う事にした。
彼女は「見たいって言うから。」と俺の部屋に友達連れて来たりもして。
後で「大きいー。」「怖くない?」その二つは必ず言われると笑って。だろうなと納得した。
入試の前日に「入学祝い何がいい?」フライングして聞いたら「制服です。」って答えで。
その時着てた中学の制服ちょっと持って「これ、着れなくなるし。」少し寂しげで。
お母さんに買って貰った最後の服。思い入れはあっても中学出て着続ける事は出来ない。
「高いけど、いいですか?」「いいよ。」彼女から買って欲しい物の指定があったのはそれが最初。
制服ならサイズ合わせだけだから選ばなくていいのに少し安心した。
合格発表当日。たまたま休みが合ったから、一緒に見に行く事になって。彼女も友達も一緒で。
女の子四人連れて徒歩で高校まで。殆ど引率。みんな全然緊張感無くて。拍子抜けして。
理由聞いたら「今年三人しか落ちないから。」だから大丈夫。でも逆に残酷な状況でもあって。
掲示板に結果張り出されて、すぐ彼女と友達三人とは番号見つけて喜び合ってたんだけど、
大泣きしてる男子がいて。仕方の無い事だけど、気の毒に。そう思ってたら急に振り向いて。
「生活保護!学費どうすんだよ!就職じゃねぇのかよ!迷惑なんだよ!!」一瞬で周囲の空気凍って。
こっち突っ込んできて。先生とか周囲の男子が止めに入って。それ後目に、足早にその場離れて。
彼女に視線落としたら、俺の腕引いて「慣れてます。」かける言葉無くて。軽く肩抱いて。
彼女が動かないから俺も動けないでいると、彼女の友達が「はい、交代。」と、手挙げて。
「ダメ。」「あ、ケチ。」「私の。」「はいはいそーだよねー。」笑わせてくれて。
やっとまた喜び合えて。合格と、良い友達いてくれた事。二重に嬉しかった。
あの時彼女に罵声浴びせた男子は、学校でも同じ感じで、彼女が進学取り止めれば、
自分が繰り上がるんじゃないかと思って、付け回して怒鳴りつけて何て事もあったらしい。
「親いねぇから怖くねぇ。」と放言してたとも。でも彼女は俺に何も言わなかった。
俺はそれを、一緒に合格発表見に行った中の一人と携帯で話して知った。
ただ周囲もその男子の行動を異常と見て彼女と二人にするような事は無かったし、
教師も事態を重く見て男子呼び出して指導したりと言う事もあったけどおさまらないで、
「すっごい嫌味なハゲ」の先生がHRの時に担任でもないのに来てその男子立たせて、
「繰り上がりなんか無いよ。バカがみっともない逆恨みすんな。」直接言ったそうで。
「惨いけど、何かスッキリしました。」それ以来は何もしなくなったと、笑って。
「黙って我慢するからチョーシ乗らせちゃうんですよ。」我慢強すぎるとも言って。
彼女の「慣れてます」って言葉と、そんなが事あっても俺には何も言わなかった事。
やっぱり嫌な思いして、それ押し殺してた事もあったのかなと考えると、やっぱり情けなくて。
何もせずにいられなくて、彼女帰ってきたらすぐ制服買いに連れて行って。
採寸して貰って一揃い。試着してはしゃぐ姿見て嬉しくて。ネクタイの結び方知らなくて、
部屋帰ってから教えながら「他に何かない?」「他に?」「進学祝い。」彼女、手止めて。
意外な顔して振り向いて「なんでもいいんですか?」「いいよー。」軽い気持ちで言ったら、
「んじゃ、高校入ったらもう少しカノジョ扱いしてください。」何かやたらと困る事言われて。
友達に「三年も付き合って何も無いのはゼッタイに変。」と言われまくったらしくて。
俺に反論とかする暇も与えずぺこ、と頭下げて「お願いします。」何よりも困る事柄で。
「…そのうち。」曖昧な言葉返したけど彼女も突っ込んでは来ずに。照れ笑いしてた。
中学の卒業式には、俺も出席。お婆さんに「あんたには来てもらわんと。」そう強く言われて。
同僚に勤務日変わって貰って出席決定。前日から自分の時より緊張して。変な気分だった。
式は淡々と進行して。解散した後も写真撮ったりビデオ回したりで明るくて。イベント後な感じ。
俺も彼女とお婆さんと一緒に写真撮って貰う事になって。カメラ持ってた彼女の友達がノリノリで、
「もっとくっついて下さいー。」俺に指示出して。彼女も寄ってきて、位置的に肩に手乗っけて。
「顔遠いから頭下げて下さいー。」俺が少し屈んだら彼女に向かって「ほっぺにキスしてー。」
ゆっくり俺の方見る彼女がいて。しないしない、と手振ったら「後でこっそりだよねー。」
一斉にひやかされて。照れる彼女の顔、手で包んで隠したら「やさしー。」困った状況だった。
いつもそうなのか、式の後でハイだったからなのか。彼女の友達、みんなうるさいくらい賑やかで。
彼女は俺とセットでいいオモチャにされてたというか。たくさん笑わせて貰って。
湿っぽさを感じる事は全く無く。卒業式も今はこんな感じなのかなと。ちょっとギャップを感じて。
普段は殆ど感じなかった年齢差だけど、何となく気付かされた六歳差。まだ大きな差だった。
帰る雰囲気になった時はもう四時半回ってて、こんな日くらいはと夕食誘って回転寿司屋行って。
ワサビがダメな彼女、さび抜き注文するの俺に頼んで。俺から店員さんに声かけて頼んで。
お婆さんがそれ見て「世話焼きやなぁ。」彼女にも「甘えきってからに。」嬉しげに笑って。
世話になりっぱなしで何とか中学出せたと頭下げられて。そんな事されると何か慌てて。
「俺もお世話になってますから。」「なんちゃ釣り合い取れとらせん。」断じられて。
お婆さんは彼女の髪撫でながら「あんたもチューくらいしたげんと。」冗談で言ったんだろうけど、
彼女はワンテンポ置いてから「う、うん。」真面目な顔で返事して。その時はそれですんだけど、
帰って二人になった時。彼女が俺の肩つついて「あは。教えてください。」ちょっと顔赤くして。
「教えてって。」「した事無いもん。」「いずれね。」余裕見せたつもりだったけど、
結構強く、肩叩かれた。明らかな抗議。不満げな表情。それ消すためにずいぶん長く、撫でた。
高校の入学式当日。俺は仕事。しかも夜勤明け。彼女は残念がったけど出席出来なかった。
色々あって家帰れたのが一時。夕方六時頃に彼女が顔触ってるのに気付いて、目を覚ました。
ヒゲ触ってる手止めさせたら「おはようございます。」「おはよ。」眠気はまだあったけど起きて。
彼女はまだ制服着たまま。きちんと着た姿は初めて。突然大人びた感じがして、違和感すら感じた。
彼女がかわいいと言った制服は、公立校にしては派手目な色使いで。田舎では珍しかった。
紺ブレザーと赤いタータンチェックのスカート。濃い赤地に細く斜めラインのネクタイ。
中学よりは校則緩くて髪結ばなくて良かったから、肩胛骨までの髪はおろしたままで。
見せたかったから着替えなかったと言って「今日から高校生です。」「うん、おめでとー。」
言わんとする事は解ってたけど気付いてないフリして。その時は彼女も笑っただけで。
夕食食べさせて貰いに市営の方行って。彼女は友達が多いクラス入れて安心だと。そんな話して。
保護の事は合格発表の時の事で知れ渡ってたけど、興味はそこには無く。他校から来た生徒は、
「あの人って何?」それ取っ掛かりに会話始めようとする事が多かったらしく。
「めんどくさいからカレシって言っちゃいましたからね。」事後承諾求められて、頷いて。
高校生と社会人。でかい壁。疑う材料はいくらでもある。面倒な事にならなきゃいいなとは思いつつ、
彼女が友達作れるならいいのかなと。そんな風に考える事にした。
中学卒業と高校入学。式だの手続きだので煩雑な毎日過ごしてたお婆さんは疲れ気味で早々に就寝。
彼女は着替えて俺の部屋来て。床で寝かかってた俺の顔触って起こしてくれて。
「あは。今日からですよ。」「…うん。」「お願いします。」悪戯っぽい顔した彼女がいて。
「何を?」「カノジョ扱い。」難しい要求で。それまでカノジョ扱いしてなかったかというと、
俺は全くそんなつもりはなかった。けど彼女はそうは感じてなかったらしく。足りないモノがあると。
彼女はじー…っと俺の目を見たまま。真っ直ぐすぎて、引きこまれそうな。そんな瞳で。
その瞳に負けたと言うと言い訳にしかならないけど。応えなきゃと。そう思わされた。
…キスまでならセーフだろう。まだ逃げ腰だったけど、頭に手乗っけて。
髪に指通して。くすぐったそうにする彼女に「キス、していい?」「あ、はい。」即答で。
溜とか間とか全く無し。何か笑えて。頭撫でてた手でぺし。と一つ、頭頂部叩いて。
「驚くとかしないの?」「してほしいもん。」「…そう。」撫でて、仕切り直し。
何言うでもなく膝の上乗った彼女は胸にくっついて。小さくて、腕の中にすっぽり収まって。
甘えて「ぎゅっ、ってして下さい。」所謂『抱っこ』要求されてたのと同じ姿勢。
でも腕の中にいる彼女の肌がだんだん熱を帯びていくのが解って。つい手で頬に触れて。
白い肌がどんどん染まって、あっと言う間に耳まで真っ赤。お婆さんが「茹だる」と言う状態。
いつもは恥ずかしがって顔隠す彼女だけど、その時はそれもせず。俺の行動を待っていて。
俺は俺で、高三の秋に前カノと別れて以来。久々過ぎての緊張。落ち着いてるフリだけはして。
軽く額に額くっつけたら、彼女は自然と目伏せて。少し力入ってる体、何度かさすって。
出来るだけやさしく、触れるだけのキス。そのまま動かずに。ほんの数秒。それだけ。
彼女は大きく息吐いて「…あは。」笑み浮かべて、胸に額くっつけて。多分、赤い顔隠して。
よしよし。そんな感じで背中撫でてる時にはもう、ただ単に甘えてる時の彼女相手の感覚で。
しばらくそのまま。あんまり長いんで、ちょっとくすぐったらビクッとなって。
やっと顔上げたと思ったら「…舌入れないんですか?」思わず、頭ぐりぐりやって。
「普通と思ってた?」「え。あ。…じゃないけど。どんなのかなって。」
「まぁ、ちょっとずつ。」「はい。」やっぱり即答で。「だから。」「はい?」「…いいよ。」
冗談でも何か言ってしまうと、引っ込みがつかなくなる。そう思って、気を付ける事にした。
彼女は高校生活始まってすぐにバイトを見つけられて、大喜びして。
平日週三回学校終えてからの二時間くらいと土日の六時間を働いて月四万円くらいになる。
事前に福祉科の担当さんに相談したら、お婆さんの内職と合わせての収入が限度を超える。
二人の収入は一部控除から全額控除になってしまうと説明を受けた。働いてるのに収入が減る。
どうにも納得いかず長い事ブツブツ言ってたら「決まりなんですから。」と、彼女にたしなめられた。
バイト先は地域の特産品を扱う個人商店。レジ打ちと地方発送の梱包を担当する事になった。
初日に帰ってきた時の顔が楽しげだったから続けられそうだなと安心してたけど、
二日目の夜部屋来ていきなり「…足、痛い。」足の裏痛いし、ふくらはぎはもっと痛いと。
運動の経験無い彼女にいきなり六時間立ちっぱなしは苦痛だったらしく。珍しく弱音吐いた。
それが何か嬉しかった。隠して我慢して溜め込んでる事も色々あったと彼女の友達に聞いて。
お婆さんに心配かけまいとするのは解る。けど俺に相談しても無駄と思われてたら嫌だなと。
少しは役立てそうな事柄だったからだろうけど、それでも頼りに思ってくれてるのは嬉しかった。
「風呂入って、マッサージして、湿布張って朝まで様子見よ。」頷く彼女を一度風呂に帰らせて。
マッサージと行っても当然専門外だし知識もなく。病棟で頼まれてちょっと揉んだり、
リハビリ室に行った時に少し習った程度。普通に素人。いざ俯せに寝る彼女前にすると躊躇した。
痛く無いようにと怖々揉む。それでもそれなりに緊張緩んでくると、彼女もだんだん力抜けてきて。
「ん…気持ちい…。」少しは効果あるかなと。続けてると呼吸緩くなって、静かに入眠。
内緒にと言われてたから迷ったけど、お婆さんに報告。まず男に足揉ませたって事を申し訳ながって、
「甘えてもええ人にされてしもうとるね。」私には意地張る癖にと苦笑いしてた。
深く寝入りすぎて起こせなかったから預かる事になって。一応足に湿布張って。
やっぱり疲れもあったのか、凄く気持ちよさそうな寝顔で。眺めてたら色々考え出した。
何でこんな子が痛い思いまでして働かないかんかなとか、俺に稼ぎがあったらなぁとか。そんな事を。
全然寝付けなくなって。揃って朝起きれなくて、出掛けバタバタして。お婆さんに笑われた
何とか一ヶ月頑張って漸く手にしたバイトの初任給は十五日締めで約半月分、約二万円。
彼女は明細見せてくれて。自分が働けた事の証明だと嬉しそうに眺めながら、
「ちゃんと働いたお金ですよね。」「うん。」「あは。やっとですね。」思わず撫でた。
振り込みあった次の日に全額引き落として。遣り繰り任せる為にお婆さんに渡したけど、
お婆さんは「あんたの稼いだ物やから。」と、一万円を彼女にお小遣いとして返した。
それまでは必要な物出来たら貰うだけで、お小遣い貰った事無くて。多すぎると慌てながら、
半分でいいとか、収入減ってお小遣い貰って家計は大丈夫なのかという心配も口にした。
けど「全部は取れん。」の一点張りで譲らず。彼女も戸惑いながらも受け取る事になって。
財布に一万円札持つの怖いからと、千円札と五百円玉に崩してから貰ってた。
ずっと貰ってばっかりですからと、牛丼奢ってくれた。普通の牛丼がやたらと美味かった。
もうこの頃にはバイトにすっかり慣れて。立ち疲れる事も足痛い何て事も無くなったけど、
度々足と背中と頼まれるようになった。最初の時が気持ちよくてよく寝れたからか、癖がついて。
せっかくだからちゃんと習おうとリハ室で資料貰って見学して。少し知識を得ると試したくて、
風呂入ってからジャージ姿の彼女が部屋来て「お願いします。」その言葉を待ちかまえてる感じに。
お婆さんが「賃も出さんのに。」と申し訳ながってたから「勉強なります。」とか言ってたけど、
実際のは脱力しきって寝入る彼女見てると妙に幸せ感じられて。ホッと出来て。完全に趣味化してた。
彼女は「一緒にいる時間減ったから。」そう言って揉まない日でも泊まりに来る回数が増えて。
家帰るのは食事だけの日が続いてもお婆さんは「ようやばば離れしたかね。」と、むしろ嬉しげ。
信頼してくれてるがゆえの無警戒。そう思うと、裏切る事は出来ないと思い。
カレシと言うよりは保護者。彼女が制服着てる間はそのスタンスでいようと努力はした。
とはいえ相変わらずちっちゃくて細くて華奢な彼女も、体型はすっかり女性で。
意識してか単に甘えてか、体寄せられて。柔らかな感触感じて、激しく理性の留め金が揺らぐ。
そんな事がしょっちゅう。でも俺は『お兄ちゃん』なんだからと、ギリギリ耐えた。
仕事に慣れが出てくると一日が楽に過ぎるようになって、そうなると一日過ぎるのが早くなって。
気が付いたら一ヶ月過ぎてるような、穏やかながらあまり変化の無い毎日。とにかく気楽で。
仕事終えて市営行けばお婆さんが食事作ってくれてて。俺より少し遅くに彼女が帰ってきて。
夕食食べて風呂入って。夜早いお婆さんにおやすみなさい言って、それから部屋に来て。
いつも横にいて。足と背中頼まれない日はゆるゆると本読んでたり、ゲームしたり。テレビ見てたり。
チャンネル争いをしだしたのはその頃。お互い一人っ子。そんな経験は無かったから新鮮だった。
ニュースとスポーツ中継くらいしか見ない俺。映画がある時だけ見る彼女。見る時間帯はかぶらない。
テレビはBGM代わりに付いてるだけ。チャンネル争いも結局甘える口実。彼女の思う壺だった。
それも慣れなのか、ホントの意味で心開いてくれたのか。どんどん素の甘えっ子な顔出してきて。
カノジョ扱い、大人扱いしてくれと言う癖に行動はまるで子供。中学の頃より幼いくらい。
しっかりしてて大人びてはいるけど押し殺してる部分も有ったのかなと思ってつい許してた。
膝乗ってくるのはだいぶ慣れてたけど、横になってる時に上乗られだすと落ち着いてもいられず。
眠い時とか相手しないでいると突然「無視したー。」それ言い出したらもうダメで。
仰向けだろうが俯せだろうが胴体跨いで乗っかって体重預けて。くっついて離れなくなる。
口では「重いー。」とか「暑いー。」とか言いながら、ただ単に甘えてるだけだと理解しつつも、
頭の隅の方でこの行為、実は誘惑か挑発じゃないのかとか考えて。打ち消すのも結構大変だった。
離れるかわりに『高い高い』して欲しいと頼まれた時は思わず笑ってちょっと噛まれた。
小さい頃誰かにして貰う機会無かったんだろうかなとか思うと、俺で良ければな感じで。
脇の下持ってひょいっと抱き上げて、ちょっと放るように差し上げて、しっかり受け止める。
繰り返してたら「怖い怖い怖い。」言って、笑いながら首に抱きついて。ゆっくり降ろしたら、
「あは。小さくて良かったです。」背の低さ、体格の細さ。本人も気にしてはいたけど、
俺と対比しての自分の小ささを楽しんでもいて。それを利用してベタベタに甘える。かなり困った。
彼女が高二の夏。専門学校時代の友達が結婚。仲良い友達だから俺と彼女二人とも呼んで貰った。
新郎は大卒組で年上、色々お世話になった方。新婦は彼女が俺の携帯でメールの遣り取りしてる友達。
俺も彼女も結婚式に出た事無くてどんな物か知りたくて、行くと即答。早速準備始めた。
遠いのと夜遅くなるから一泊の予定、宿の最終決定は彼女に一任。彼女の式服買いに行って完了。
当日式場で学校の友達と合流。彼女は速攻で捕まって、化粧室連れ込まれて顔塗られてた。
出来上がって戻ってきたら薄いピンクの口紅が妙に艶めかしくて変に動揺して。大概冷やかされた。
式の最中、彼女が俺の手を持って「いーなぁ。」引っ張ったり揺すったりしながら繰り返して。
その場では式や結婚に対する憧れが強いんかなぁとか漠然と思ったけど、微妙にズレていた。
俺は二次会の開始時に知った、新婦の懐妊。彼女の「いーなぁ。」はそれに向けての事。
「赤ちゃんいーなぁ。」心底羨ましそうな彼女に新婦が「頼めばいいのに。」無責任な言葉吐いて。
その場の雰囲気と酒の所為とで新郎新婦他全員がイケイケ状態。その場で決断を迫られた。
四年も付き合ってちゃんと意思表示しないのは駄目だと追いつめられた。半ばやけくそで、
「とりあえず婚約からお願いします。」みたいな事を言わされて。頷いた彼女、盛大に茹だった。
缶ビール一本で死ねる下戸なのにアホみたいに酒持って来られて祝いだとかって訳解らなかったし、
彼女まで飲まされて目真っ赤にしてるしで拒否るのに苦労。二次会終了でやっと解放されて。
十二時まわってから宿に到着。普通のビジネスホテルの和室。座って、暫く二人して放心してたら、
「やっぱり無しとか。冗談だったとか。無しですよ?」ぽつんと言って、見上げられて。
ここまで来て引っ込みが付く訳も無く「心配ないよ。」「…あは。」「返事は?」「え、返事?」
「返事聞いてない。」意地悪く言ったつもりだったけど、元気に「お願いします!」言ってくれた。
お婆さんと親父達には、とりあえず内緒。俺の実家に帰って全員揃ってる時に言う事に決めた。
帰りに彼女と俺と、揃いの指輪買った。勿論安物。見られたらバレるからと、俺の部屋でだけしてた。
仮にとは言え婚約しても相変わらず「子供かよ。」ってくらい甘えられて。それには何か、安心できた。
仮婚約決めてすぐ、彼女は突然髪を切った。背中まであった髪バッサリ。耳が出るくらい短く。
大人っぽくなるかと思ったら失敗したと謝られた。実際かなり印象変わってやんちゃな感じ。
でも涼しげで軽そうで似合ってて。風とか当たるとくすぐったいと言う耳、つい触れて。
反応楽しくて繰り返してたら俺も触り返されて「ビクッてならないですね?」不思議がられた。
でもやっぱり長かった髪切った事で女の子連中は「絶対なんかあった。」と俺と彼女に電話攻勢。
色々聞かれたけどすっとぼけて。彼女もだんまり決め込んで。とにかく秘密は守った。
誰にも言わない二人だけの秘密。そんな物があると言うだけで妙に浮ついた。
その年の年末、十二月に半ば。お互いの仕事の忙しい時期避けて早めに休み取って帰省。
流石にその日が近付いてくると緊張と言うか「何言おうか。」そればかり考え始めた。
話し合いはしたけど初めての事で何を事言えばいいのとか解らないから、結局考える事を放棄。
家帰って、飯喰う前に彼女と二人でならんで正座。ストレートに「婚約許して下さい。」それだけ。
「ん、いいんじゃないか。」親父のその一言に反対は出ず。簡単に承認された。
毎年一度は彼女とお婆さんと一緒に帰省して、俺と彼女以外の四人は酒好き、必ず酒が入る。
そんな場では冗談半分ながらそのうち一緒にさせてしまおうと言う話が繰り返されてたし、
本家の姉さん夫婦とか、下のおじさんとか近しい親類が一緒の時もあり、彼女も顔見せはしてて。
そんな状態だったから俺も彼女も不安は感じてなかったけどちゃんと認めて貰えれば一安心。
内祝いとか言って結局酒が入って。酔って「ありがとうねぇ。」ばかり言うお婆さんと、
「あんたは肝の小さい男や。」と怒る婆ちゃん。今すぐ結婚しろと暴走。お婆さんも乗っかって。
彼女と二人、早々に逃げ出した。さっさと風呂入って寝る準備。風呂上がりに親父と出くわして。
「二人でかしこまってるから『子供出来ました』かと思って変な汗かいたぞ。」苦笑いしてた。
「まだ無いよな?」「まだ。」「当たり前だ。」珍しく笑いっぱなしの親父がいた。
正式に婚約。特に知らせない人もいつの間にか嗅ぎつけてくるのが田舎の情報伝播力の怖さ。
速攻で知れ渡り。祝ってくれる人が多い中で、やっぱり難癖付ける人も出てきた。
どこにも相談が無かった。勝手な振る舞いばかりしてると親戚内からもはじかないかんなる。
本家に逆らって勘当されてまだ懲りないのかと説教態勢の方々。とにかくうるさかった。
面白かったのが「こんなやり方は無い世間に顔向けでけん恥になる。」と怒鳴り込んできた婆様。
「高校出るの待って見合いしてやる気でいたのにこんな常識外れの抜け駆けはなかろうが。」
こんなのは誰にも認めてもらわれん。格も低い年も若いで順番が違う。歳がさから順にが当たり前。
要するに何が言いたいのかというと、その家の息子が未婚だったと言う話で。彼女を譲れと。
しかも息子さん五十近かった。有り得なさすぎてその場にいた俺と親父と下のおじさんで爆笑。
下のおじさんに「あんた人のカノジョと見合いは無いやろ。」どっちが常識外れかと言われ、
可笑しげな事を考えるなと笑われ。すると身内に恥をかかすのかと喚き散らしだし。
「若い嫁とってもあんたら種無しの筋が相手じゃ子が出来んてかわいそうな事になるだけや。」
その言葉で下のおじさんが切れて。婆様をひっ掴んで庭を引きずり出して警察が出動する事態に。
今でこそなんとか笑い話に出来るけどその時は修羅場というか、かなりみっともない事になった。
種無しって何の事だと親父に聞いたら、親父の二人の兄が共に結婚しても子供が無くて、
親父もおかんと結婚して俺が出来るまで八年かかって、その間に「種無しの筋」と言われだしたと。
上のおじさん(故人)は橋屋で財産作った人。下のおじさんは一緒にやってて今は引き継いでる人。
親父は当時としては珍しく、大学出て地元に戻って公務員になった。どっちも農村では妬みの対象。
みんな結婚も早かったし経済的にも豊かで、陰口叩ける所は子供が無い事ぐらいだったから、
「種無し」と呼ばれるようになったと。親父は俺が産まれてるんだから無い訳はないんだけど、
下のおじさんにとっては我慢ならない言葉。切れて当然。警察から帰ってきて、かなり落ち込んで。
俺への遺伝まで気にしだしてたから安心させようと「検査受けてみるよ。」軽い気持ちで言った。
職場の院長に事情話して紹介状書いて貰って、精液検査を受けた。後学の為にとか言いながら。
結果は「ちょっと(精子数)少なめ。何度か検査してみますか。」聞いて一分間くらいは固まってた。
四度目の検査を終えて。軽度の造精子機能障害との診断。所謂「種が薄い」と言う状態。
自然妊娠は可能なレベルだし若いんだから深刻になるなと言われたけど、ショックだった。
院長に結果を報告したら焼き肉喰わせてくれて。メジロアサマ(競走馬)の話をしてくれて。
競馬は知らないけど、頑張れば立派に子孫を残せると言いたい事は理解できて。とにかく泣いた。
迷ったけど親父達には「妊娠に問題無し。」だけ伝えた。下のおじさんは喜んで涙声。心苦しかった。
高校三年になった彼女は、一生懸命バイト頑張ってた。卒業後に正社員で働く事が決まったから。
パートさん入れても十人くらいの小さな所だけど、少しはボーナスも出してくれると。
真面目なのと仕事にキッチリこなしていたのを認められての事。やっと普通になれると喜んで。
「…赤ちゃん欲しいです。」初めてハッキリと言った彼女におそるおそる「…今?」そう聞いたら、
「卒業して一年くらいお金貯めてからですね。」準備も勉強も出来てないから今はまだ無理だと。
「お母さんが二十歳で私産んでくれたから私もできたら二十歳でお母さんになりたいです。」
お母さんになってお父さんと一緒に子供を育てたい。大きな夢を語るみたいに楽しげに語って。
それ聞いてて俺がどんな状態なのかを伝える事を決心した。どんな反応帰ってくるか怖かったけど、
「確率ちょっと低いだけなんですよね?」頷いたら「あは。いっぱいします?」思わず抱き締めた。
その頃はまだ、子供が出来るような行為には至って無くて。でもキスは毎日のようにしてて、
そのどさくさに紛れてどこかしら触れたり、布団の中で体寄せられて、つい手が伸びたり。
「胸は、やだ。」それ以外は良いというか、嫌がる事も無く。むしろ待たれてるような。
甘えられて、何となく撫でる。その延長のちょっと深いスキンシップの様な感覚。その程度まで。
まだ学生。まだ子供。俺の中ではそうだったから、それ以上は踏み込めなかった。
彼女が高校卒業して。正社員としての初任給貰うと共に、生活保護を止めて貰った。
「これでやっとフツーですよね。」彼女は興奮気味にそう言って、顔全部で笑顔作った。
初任給十三万くらい。生活費として八万円をお婆さんに。自分のお小遣いは一万円。
残りは全部貯金。「赤ちゃん用貯金。」そう公言されて、照れくさくて。俺も一緒に貯め始めた。
俺と彼女の共通の趣味は読書。休みの日も二人で漫画喫茶行くくらいで、使い所無いから貯められる。
月々貯まるのが嬉しかった。けど仕事帰ってきて、風呂入って来た彼女の足をいつも通り揉んでる時。
「…貯金、貯まるのはいんですけど。…赤ちゃんは?」焦れたのか、突然言われて。
「もう社会人なんだから。子供じゃないです。…よね?」そこまで言わせてごまかせる訳もなく。
やっと思い切れた…とは言え。俺も高三の時以来だし彼女は初めてだしで。かなり戸惑って。
日を改めながらの四度目のチャレンジで何とかできて。嬉しいと言ってくれる彼女前にして、
凄い罪悪感と嫌悪感に襲われた。彼女の願い叶えてあげられるのかなと不安にもなった。
けど彼女が言ってくれた「あは。だいじょぶですよ。」それだけで何か安心できた。
あの時からの俺と彼女がおかれている状況は、殆ど変わりがありません。結婚もまだです。
お婆さんが「もう子守りは済んだで。」そう言って、彼女の住所が俺の部屋になったくらいです。
俺達の仕事も同じ。お婆さんも内職続けてます。彼女の求めたごく普通の暮らしだと思います。
最近彼女が積極的に子作りを考えて。食べる物まで気を使い始めて。
排卵日とかの計算もしてるし、いろんな俗説やら仕入れてきては実行したりして。
友達のナースや介護職の女の子達がある事ない事吹き込んでくれるのには少し困ってます。
毎年、命日に近い日に二人でお母さんのお墓参りに行きます。今年も行けました。
いつか三人で行ける時が来たらいいなと。今願う事はそれだけです。長々とすいませんでした。